苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主が事を起こすとき

  サムソンはティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘でティムナにいるひとりの女を見た。彼は帰ったとき、父と母に告げて言った。「私はティムナで、ある女を見ました。ペリシテ人の娘です。今、あの女をめとって、私の妻にしてください。」
  すると、父と母は彼に言った。「あなたの身内の娘たちのうちに、または、私の民全体のうちに、女がひとりもいないというのか。割礼を受けていないペリシテ人のうちから、妻を迎えるとは。」サムソンは父に言った。「あの女を私にもらってください。あの女が私の気に入ったのですから。」
  彼の父と母は、それが【主】によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテ人イスラエルを支配していた。(士師記14:1−4 新改訳)


 聖書全巻を通じて、常識はずれの主の僕の横綱はこのサムソンだろう。怪力・女好きのサムソンは、偽りの神々に仕えるペリシテ人の娘を嫁にしたいと願った。だが、ここでもっと気になるのは、最後の第四節である。「彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。」


 私たちはたいてい平穏無事であることを願いがちである。ことを荒立てたくないと考える。しかし、いつわりの平和というものがある。時に、真実があきらかにされ、みこころが成るために、主は争いを起こされることがある。だから望んだわけでもないのに争いが起こり難しい事態が生じたならば、目先のことであわてふためかないで、どっしり構えて、主のみこころはなんであるのかを見極めることである。
 平和の君、イエスはこんなことも言われた。

 「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」(マタイ10:34)


注>口語訳聖書では、14章4節は「サムソンはペリシテびとを攻めようと、おりをうかがっていたからである。」と、おりをうかがっていた主語はサムソンとされているが、これは翻訳として無理である。