苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

イスラエル、北斗の拳の時代


そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。(士師記21:21)

 士師記19章から21章は、おぞましい出来事が記されている。あるレビ人がそば女を持ったが、その女が彼を嫌って実家に帰った。レビ人は彼女を連れ戻しに女の実家に行くものの、帰り道、ベニヤミン族の町に立ち寄ると、そこでかつてソドムの町で御使いたちが人々から受けたような暴行を受けそうになった。レビ人はロトがあのとき難を逃れようとするときにしようとしたことを思い出したのかどうか、そば女を暴徒たちに渡した。結果、そば女は朝まで暴行を受けたあげく殺害された。レビ人はベニヤミン人たちがしたことの不当を訴えるために、ある方法でイスラエル全部族を集め、イスラエルの民はベニヤミン族を攻撃した。
 とにかく読んでいて気持ち悪くなってしまうような記事である。そして、おしまいは「そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」という、士師記に繰り返される文言をもって結ばれる。聖書記者の立ち位置は、王がすでに立ち、社会に秩序が行き渡っているという時代にあると思われる。王の意義、あるいはもっと広くいえば俗権の意義について述べている。無政府状態に陥ると、世はあの「北斗の拳」の状況のようになってしまうというわけである。
 いろいろ不満を感じたとしても、クリスチャンとしては、上に立つ権威、国家の指導者が己の分をわきまえ、公僕としての自覚をもって、善政をなすように祈ろう。

 そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。 それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。(1テモテ2:1,2)