苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

求めなさい、与えなさい

                    マタイ7:7−12



   散歩道のカタクリ


1.無尽蔵の父に求める


 イエス様は弟子たちに、この世界にあって、天の父の子どもとして、いかに生きるかということを、この山上の説教の中でずっと語ってこられました。金、金、金がすべてといったせちがらい無味乾燥な世界に、天国からふりかけられた塩として味をつける働き、それはキリスト者である私たちの生き方です。「あなたがたは地の塩です。」
 また、私たちはこの闇にとざされた世界にあって世界の光です。その暗闇は天地の創造主を見失って真理がみえない世界、生きる目的の見えない世界、光が無く愛の冷えた世界です。その世界にキリストの弟子である私たちは派遣されて、灯台のような役割を果たします。迷った船が天国という港に無事たどり着くためにお手伝いをさせていただくのが、私たち灯台であるキリスト者です。「あなたがたは世界の光です。」
 けれども、そのように地の塩として、世界の光として生きていくことは、自分の情熱、自分の財力、自分の頑張りだけでは、とうてい無理でしょう。しばらくは出来そうに思えるかもしれませんが、けっして持続することはできません。肉の力の限界です。遅かれ早かれ塩気が無くなり、また灯台の灯をともす油も尽きてしまいます。
 でも、私たちには無尽蔵のお方、天の父がついているのだよ、とイエス様はおっしゃるのです。自分の欲望を満たすための人生ではなく、地の塩・世の光として、天の父のみこころを行うために必要なものは、天の父に求めるならば、ちゃんと備えてくださるのだという約束をくださっているのです。それでイエス様は弟子たちに対して、そして私たちに対しておっしゃいます。

「7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

何度かお話しするように、ギリシャ語本文では「求め続けなさい、探し続けなさい、たたき続けなさい」と訳されることばです。しつこく、粘り強く、繰り返しもとめなさいということです。アブラハムが、また、モーセがしつこく民のためにとりなし祈ったように、粘り強く祈るのです。

 藤田寛さんの働きを見るときに、これは人間業ではないなあと思います。私が二枝さんを通じて藤田さんと出会ったのが、まだ馬流元町の借家で集会をしていた、もう16,7年前のことです。「通信小海」でお米を募集し始めて、最初の年、あつまったお米は年間約2トンでした。それが段々とふえて昨年は8トンほどで、山谷を初めとして新宿、広島などの炊き出し団体などに送ってきました。昨年1年間の給食数を申し上げれば、新宿地区で67回実施して45628食、山谷地区で50回実施して35538個、群馬県高崎で36回実施して2058個、横浜寿地区で37回実施して22756食提供してきました。どれほど多くの人のいのちが助かったのでしょうか。今では、藤田さんは支援団体の人たちから、「お米屋さん」と呼ばれています。
 藤田さんはこの働きを徒手空拳で始められ、今にいたるまで徒手空拳ですが、神様がその奉仕を祝福してくださいました。毎年お米が倉庫で底を尽きそうになる時期があるのですが、神様に求めて祈る時に、必ず神様は誰かの心を導いて、必要を満たしてき続けてきてくださいました。これからもそうだと思います。
 「求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさいそうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」


2 天の父は気前よく、かつ正しいお方


 もしかすると、私たちは求めることもなく、最初から、「どうせ無理でしょう」と不平を言ったり、あきらめていたりしてしまうことが多いのではないでしょうか。でも、神様のみこころにかなったこと、つまり、神を愛することと、神がくださった隣人を愛することという目的にかなったことであるならば、神様は天の窓を開いて必要を満たしてくださいます。
 私たちが求めないのは、「あなたは散らさないところから刈り取るお方です」と言った1タラントの悪い僕のように、父なる神様のことをけちなお方であるというふうに思っているからではないでしょうか。ヤコブ4章2節につぎのようにあります。「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」得られない理由の第一は、願いもしないことです。最初から天の父を信頼せず願わないから得られないのです。
 主イエスは、そこで、わかりやすいたとえをもって父なる神は、気前の良い正しいお方であるということをお話くださいます。

「7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

 悪い人間でさえわが子には良いものを与えるのだから、まして、善の善であられる天の父が、御自分の子どもとしてくださった私たちが求めるときに良いものをくださらないということはありえないことです。天の父は、子どもが求める時に、必ず与えてくださるのです。

 ただし、もうひとつ注意しておくべきことは、「どうして良いものをくださらないことがありましょう」という点です。天の父は良いお方ですから、「良いもの」をくださるのであって、「悪いもの」はくださいません。でも、もしかすると、そのよい物は人間の目から見たら、悪い物が与えられたように見えるときもあるでしょう。重すぎる十字架とか、試練とか。けれども、それは実は神様が吟味してお与えくださった良いものなのです。試練は忍耐を生み、忍耐は練られた品性を生み、練られた品性は希望にいたるのです。良薬口に苦し。
 また逆に、悪魔は欲望にとらわれた人間の目にはすばらしく良いものに見えるものをくれることがあります。ギャンブルには、ビギナーズラックということがあるそうです。初めて競輪に行ったら大当たりしたとか、初めて競馬をしたら、万馬券があたったとかいうふうなことです。そういう経験はすばらしいことでしょうか。いいえ、一度そんな濡れ手に粟の経験をすると、もう競馬をやめられなくなってしまいます。待ちぼうけのあの歌みたいです。歌詞は北原白秋だそうです。

待ちぼうけ 待ちぼうけ
ある日せっせと 野良(のら)かせぎ
そこへ兎(うさぎ)が飛んで出て
ころり ころげた 木のねっこ


待ちぼうけ 待ちぼうけ
しめた これから寝(ね)て待とか
待てば獲(え)ものは 駆(か)けて来る
兎ぶつかれ 木のねっこ


待ちぼうけ 待ちぼうけ
昨日(きのう)鍬(くわ)とり 畑仕事(はたしごと)
今日は頬(ほお)づえ 日向(ひなた)ぼこ
うまい伐(き)り株(かぶ) 木のねっこ


待ちぼうけ 待ちぼうけ
今日(きょう)は今日はで 待ちぼうけ
明日(あす)は明日はで 森のそと
兎待ち待ち 木のねっこ


待ちぼうけ 待ちぼうけ
もとは涼しい黍畑(きびばたけ)
いまは荒野(あれの)の箒草(ほうきぐさ)
寒い北風 木のねっこ


ビギナーズラックは悪魔が与える罠です。飛んで出たウサギです。それは身を滅ぼし家庭をめちゃくちゃにしてしまいます。天の父は、良い物をくださるのです。
私たちの天の父は気前がよいだけではありません。天の父は、神の子どもたちにとって、何が真の意味で有益であるかをもっともよく知っていらっしゃる、正しく知恵に満ちたお方です。そして正しい心をお持ちのかたです。天の父に信頼して、物質的なものであれ、霊的なものであれ、求めること、探すこと、たたくことです。そうすれば、それぞれ御自分の子どもにとって、最も必要で有益なものを与えてくださいます。


3 天の父のように


 主イエスは、このように「求め続けなさい。探し続けなさい、たたき続けなさい。きっと天の父が良いものを下さるよ。」と話して来られて、一転して、次のように結びます。

「7:12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」

 私たちは天の父に求めてよいのです。実際、私たちは天の父から享けていないものなど何も無いのですし、天の父の気前よさがなければ、ひと時も生きていることもできないのですから。先日、春の修養会で堀越先生から、心臓について詳しく学びました。心臓という臓器がどれほど成功に設計され、作られ、そして見事に動き続けているかということを学びました。私たちの心臓は1日に8トンもの血液を送り出しているそうで、それが一日24時間、80年、90年、100年一生の間フルタイムで働き続けているのです。この1日8トンの超優秀ポンプを神様は無料で私たちにくださいました。私たちが造ったわけではありませんし、また、意識して動かしているわけでもありません。すべて天のお父様のしてくださっていることです。
 このことにかぎらず、肉体的にも精神的にも霊的にも私たちは父なる神様の気前よさによって、赦され、生かされています。今度は、天の父のめぐみに感動して、このめぐみへの応答として、
「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」
とイエス様は私たちにお命じになります。「これが律法と預言者です」というのは、これが旧約聖書の要点ですと言う意味です。聖書にはたくさんの戒めが書かれていますが、その要点は『何事でも自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにする』ことなのです。神様から愛されている者として、隣人を愛するように、ということです。
 このことばはしばしば論語に書かれた「己の欲せざることを他人に施すなかれ」ということばを比較されます。論語のほうは消極的ですが、イエス様のことばは積極的です。論語のほうは待っている態度ですが、イエス様のことばは自分から働きかけることです。現代は人は他人に無関心になっている愛の冷えた時代です。この愛の冷えた時代のなかで、イエス様は積極的に、自分にしてもらいたいことを、ほかの人にするということが大事なことです。
 祈りながら心に思いめぐらしてください。あなたのうちに示される、隣人とは誰でしょうか。その人に対して、自分にしてもらいたいことを今週さっそく行いましょう。