苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ああ肉が食べたい

11:4また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。 11:5われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。 11:6しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。
                      民数記11:4−6

 かつて荒野に飢えたとき、天から降ったマナに喜んだ民は、いまはマナに飽き飽きしてしまった。「きょうもマナ、あすもマナ、これじゃ年がら年中マナ、マナ」と。もはや恵みを恵みと思わず、恵みの上にあぐらをかいてしまった状態。「マナのほか何もない」とかれらは不平を鳴らした。
 「肉が食べたい」なら素直に、「神様、肉をください」と言えばよい。天の父は、それが私に必要なことを御存知なのだから。口が裂けても言ってはならないのは、「エジプトのほうがよかった」という忘恩のことば。神の救いの業を根本から否定し、約束の地への使命を忘却しきったこのことばは、許されることではなかった。
 どうせ神はけちなお方だと言って求めることもせずに、主イエスの十字架の救いを知らない頃のほうがましだったなどとは言ってはならない。自分のつぶやくことばが、自分を陥れる罠になる。
 恵みの上にあぐらをかかないこと。必要なら不平を鳴らすのでなく、素直に求めること。父の御顔をあおいで、子どもとして生きてゆこう。