苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

この世を天国のように生きる

                マタイ6:19−24


1 お金というもの

 イエス様は、施し・祈り・断食という三つのことを取り上げて、人の目ではなく父なる神様の目を意識して生きることを教えてくださいました。私たちの天の父は、隠れたところで私たちのことをいつも見守っていてくださいます。だから、うわべを飾るような生き方ではなく、隠れたところで見ておられる父に喜んでいただける生き方をするのがよいことです。
 今朝は、そういう父なる神に見守られている私たちが神の子どもとしての生き方のなかで、特に、富、お金というものの用い方についてイエス様が教えてくださったことに耳を傾けましょう。

 その昔、まだ貨幣というものが存在しない時代、人はなんでもかんでも自給自足することができるわけではないので、他の人と物々交換をすることによって、お互い自分に必要なものを手に入れるようになりました。「大根あげるから、私にごぼうください。」「この棒をあげるから、その米をください。」というぐあいに。
 でも、物々交換には不便なことがあります。ひとつには、大根とごぼうの価値が同じであるかどうかはよくわかりません。大根一本とごぼう二本か、逆か?とか。また、かぼちゃは家にたくさんあるから、じゃがいもを手に入れようと思って、物々交換広場にいってみたらみんなかぼちゃしかもってこなかった、とか。
 また、物というのはほとんどが、だんだん時間と共に腐ったりして価値が減っていくものです。食べ物などはその典型で、きょうはおいしくて活きのよい秋刀魚でも、一週間たてばごみです。価値を保存することができません。野菜だって鮮度が落ちれば価値が減ります。
 それで、いろいろな商品を交換するための手段として、みんなが共通して価値があると思えて、かつ、いたみにくく貯蔵できるものを使おうじゃないかということになりました。日本では米はみんなが共通して価値があると思えるし、小分けしやすいですし、保存も結構きくので、お米が貨幣のような役割を長く果たしていました。江戸時代までは、お侍さんたちは何石取りとかいって、お米で殿様から給料をもらうという仕組みでした。それと並行して貨幣も用いられました。ずっと昔は珍しい貝殻とか、石が貨幣として用いられたそうですが、日本では、和銅開寶と呼ばれるお金が708年に作られたのが最初だと歴史の教科書でならいました。
 金属や紙の貨幣は小分けしやすく、腐らないので貯蔵することができます。そのうち、ものの価値がお金で測られるということになっていきます。このバナナは一房300円だとか、あの車は300万円だとか。たしかに便利は便利になりました。


2 金銭の魔力


 しかし、貨幣というものがどんどん用いられるようになると、価値の転倒が起こります。本来はお金には別に価値があるわけではありません。お金は、それ自体食べられないし、おはじきに使うくらいしか用途がないでしょう。が、いろいろ高価なものと交換できるお金自体が価値があるように人は錯覚するようになってきたのです。
 そこで、イエス様は、お金というものの危険性について話されました。
 第一に、金に目がくらむと人は天国を見ることができなくなってしまうということです。イエス様は「6:22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、 6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」と言われました。目が暗いというのはヘブル語の慣用句でけちという意味だそうです。心の目が悪いので、天国が見えないので自分の富に執着して、けちになるということでしょう。逆に目が明るいとは、天国が見えるので、富に執着せず気前よく神様のみこころにかなって用いることができるということになります。「その暗さはどんなでしょう!」というイエス様のおことばには、深い嘆きと憤りが込められていますね。後に、御自分の敵に銀貨三十枚で売り渡してしまうユダのことがイエス様の脳裏をかすめたのでしょうか。
 殺人ということと、金持ちになりたがること(貪欲)と、どちらが重い罪でしょうか?この世の価値基準からいえば、殺人は死刑にされるかもしれない恐るべき罪ですが、「金持ちになりたがった」ことで刑務所に行かねばならないということはないでしょう。でも、聖書を読んで驚かされるのは、人は殺人とか姦通などという恐ろしい罪を犯してしまってもダビデのように悔い改めて神様のあわれみを受けることができたという例はあるのですが、金銭の罠にひっかかってしまった人は、旧約聖書ならアカン、新約聖書ならユダをはじめとして永遠の滅びにいたってしまったという記述があることです。

「6:9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(1テモテ6:9,10)

 金銭というものは理性の正常な判断力を狂わせてしまうのです。堤未果さんの『貧困大国アメリカ』というレポートを読みました。米国社会はブッシュ政権の政策によって、ここ十年間のうちに極端に不平等な社会になってしまい、人口の1パーセントの人々が80パーセントの富を独占しているという現状です。
 米国では、多くの反対があって皆保険制度がなく、多くの貧しい人々はあまりにも高額な医療費のために、医療にあずかることができず、毎年4万人の人が見殺しにされているそうです。日本の外務省ホームページに今年1月の記事として次のような文章がありました。「ニューヨーク市マンハッタン区の医療費は同区外の2倍から3倍ともいわれており,一般の初診料は150ドルから300ドル(15000円から3万円),専門医を受診すると200ドルから500ドル(2万円から5万円),入院した場合は室料だけで1日数千ドルの請求を受けます。例えば,急性虫垂炎で入院し手術後腹膜炎を併発したケース(8日入院)は7万ドル(700万円),上腕骨骨折で入院手術(1日入院)は1万5千ドル(15万円),貧血による入院(2日入院,保存療法施行)で2万ドル(200万円)」だそうです。ニューヨークでなくても、盲腸の手術で240万円ほどです。金持ちたちはそれぞれ自分の好みで最高最新の医療を受けるために、高額な民間の医療保険に入っています。しかし、庶民はそんな高額な保険に入ることはできませんから、病気になっても治療も受けられないというのが米国の現状なのです。
 国民皆保険制度をオバマ大統領はつくろうとして奮闘中で、あと一歩のところに来ていますが、金持ちと保険会社には国民皆保険に反対する人が多いそうです。金持ちは自分たちが貧乏な人々のために健康保険税を払うのは真っ平だといい、保険会社は自分たちのシェアが減るのを嫌っているのです。こういう1パーセントの人々の目は金銭に捕らえられて真っ暗で、人のいのちよりも金のほうが大事だと判断するのですね。そうした金銭の魔力に捕らえられた人たちにとっては、お金が神さまなのです。だからイエス様は、警告なさいます。「6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
 金銭の崇拝者は、神様が万能のお方であるように、お金は万能である、お金さえあればなんでもできるというふうに考えるようになります。家や車やもちろんのこと、人の心も、人の命までも金で買えると思うようになるのです。言い換えると、金銭崇拝者は、すべてのものをお金に換算することができるのだと思い込んでいて、お金以外の価値は見えなくなってしまいます。家ならお金にある程度換算できるでしょう。でも家というものにはその家族の思い出がいっぱい詰まっているものですが、金銭崇拝者には「家族の思い出」などという価値はまったく見えません。金銭崇拝者には、父の日に、子どもが一生懸命に描いてくれたおとうさんの似顔絵といったものの価値などまったく見えなくなります。お金に換算したら、1円にもならないからです。
 家がほしいから貯金している、結婚資金をためているというのは健全です。ですが、とにかくお金をためることそれ自体が目的だというふうに、蓄財そのものに喜びを感じているとしたら、その人は金銭の奴隷です。そのたましいは永遠の滅びの危機に瀕しています。金銭は人間生活・社会を便利にするための単なる道具にすぎず、目的ではないからです。金銭それ自体を目的にしている人は、神としているのです。


3 天に宝を

 お金というのは、最初に申し上げたように便利な道具ではあります。でも、えてして悪魔は、金銭を用いて人を誘惑し、永遠の滅びに陥れようと虎視眈々と舌なめずりしながら、私たちの魂をねらっています。では、私たちは、どのようにして金銭の奴隷とはならず、主人として、金銭を正しく支配し活用することができるのでしょうか。地上の宝は朽ちたり、盗まれてしまうものだということをわきまえて、天に宝を積むことです。

6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。


(1)天に宝を積む方法
 では、具体的に天に宝を積む方法とはなんでしょうか? 神様が聖書で教えている方法はふたつあります。ひとつは、神様のものを神様にお返しするということです。マラキ書3章10節です。

3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。
  こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の【主】は仰せられる──
  わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、
  あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
 天に宝を積むもうひとつの方法は、貧しい人に施すことです。箴言です。

3:27 あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな。
3:28 あなたに財産があるとき、あなたの隣人に向かい、
 「去って、また来なさい。あす、あげよう」と言うな。

19:17 寄るべのない者に施しをするのは、【主】に貸すことだ。

 主がその善行に報いてくださる。
 ただし注意しないといけないのは、献金にせよ施しにせよ、天の宝としたい場合は、見せびらかさないでさらっとすることです。
 

(2)天に宝を積むことには3つのよい点があります。
 第一は、地上に蓄えた宝は朽ちてしまったり、盗まれたりします。硬貨や紙幣は金庫の中で腐ることはありませんが、社会情勢で価値を一気に失うことがあります。たとえば、1923年、ドイツが第一次大戦で敗れたあと、莫大な賠償金を求められて、財政破綻したことがありました。ドイツ経済はいわゆるハイパーインフレに陥り、お札は紙くず同然となりました。1913年を1マルクのものが、1923年には1兆円になったそうです。その辺に買い物に行くのに乳母車に札束を山のように積んで出かける写真を見たことがあるのではないでしょうか。・・・ですが、天に蓄えた宝は、朽ちることもなく、盗まれることも、ハイパーインフレで紙くずになることもありません。天に宝を蓄えているものに対して、神様は必要なときに必要なものを恵み与えてくださいます。
 天の宝のすばらしい第二点は、天に積む宝は、それぞれの感謝と献身と愛に応じた額でよいということです。この世であれば、月収一億円の大富豪が毎月1000万円貯金するのと、千円のお小遣いをもらった子どもが100円貯金するのとでは、この世の銀行はお金持ちを大歓迎し、子どもにはさほど歓迎しないでしょう。けれども、天国銀行はそうではなくて、月収1億円の金持ちが毎月1千万円、献金したり貧しい人に施したりして天に宝を積むのと、子どもが1000円のお小遣いから100円を献金したり貧しい人に施したりして天に宝を積むのとを、天の父なる神様は同じように評価なさるのです。人と比べる必要はありません。私たちはそれぞれ与えられたものに応じて、神様に感謝と献身と愛を表現すればよいのです。
 天に宝を積むことの第三のメリットは、さらにすばらしいことです。それは、「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」ということです。私たちは、地上に宝を積み蓄えていると、その心は地上に張り付いた状態にありますが、天に宝を積むならば、心を天に持つことができるのです。つまり、思いわずらいから解放されて、いつも天の父なる神様のことを考えて、楽しくきよく生活できるようになるのです。賛美歌に「ハレルヤ、罪とが、消されしわが身は、いずくにありても、御国の心地す」とあります。そのように、この地上にあっても、御国の心地をして生活することができるのです。すばらしいことではありませんか。