苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

天父の眼差しのもとに

「6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。 6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。 6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」 マタイ福音書6章1-4節

慈善か偽善か


 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」とイエス様はおっしゃいました。この後、施しと祈りと断食と続きますが、これら三つは当時のユダヤ人社会のなかで、敬虔なユダヤ教徒が果たすべき善行とされていました。施しは、旧約の律法を背景とする今日のユダヤイスラム、欧米のキリスト教社会では、経済的余裕のある人々にとって義務とされています。大金持ちでありながら、病院や学校や施設などに多額の寄付をするというふうな社会的な貢献をしないと軽蔑されてしまいます。日本では慈善的な寄付行為というのは、あまり一般的ではありませんでしたが、阪神大震災以来、そのような社会的な変化が生じてきました。
経済にいささかでも余裕のある人が、貧しい人に施しをするという行為それ自体は神に喜ばれるよいことです。旧約聖書箴言にも、次のようにあります。


「14:21 自分の隣人をさげすむ人は罪人。
 貧しい者をあわれむ人は幸いだ。・・・
14:31 寄るべのない者をしいたげる者は
 自分の造り主をそしり、
 貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。・・・
17:5 貧しい者をあざける者は自分の造り主をそしる。・・・
22:2 富む者と貧しい者とは互いに出会う。
 これらすべてを造られたのは【主】である。・・・
28:27 貧しい者に施す者は不足することがない。
 しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。」

 あの金持ちとラザロのたとえで、金持ちが地獄であのように苦しむわけは日本人にはわかりにくいでしょうが、律法を背景としている社会ではあたりまえのことです。金持ちが地獄で苦しんだわけは、彼がなにか犯罪に手を染めたからではありません。門前の乞食に食べるものを施すという富裕な者がなすべき義務を果たさなかったからです。
 けれども、その施しが、人に見せるためになされる偽善になることがしばしばあるとイエス様は、指摘なさいます。もしそうなら、慈善でなくて偽善になってしまいます。それはさもしいことです。
「6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」
 アーノルド・ベネットという人の本にファイブタウンズ物語というのがあって、そこにサー・ジョシャファットという大変成功した実業家が登場します。彼は英国で最大級の食器工場を持っていて、薄利多売方式で大もうけをするのですが、従業員には最低限の賃金しか支払わないのです。けれども、一方で彼はファイブタウンズの病院や学校には多額の寄付をするのです。町の人々は彼の慈善ならぬ偽善にあきれて、彼の慈善=偽善の記念として、彼の肖像画を贈るのです。いかにも偽善者的な顔をした彼の肖像画を。彼はそれを捨てるわけにもゆかず、泥棒に頼んで盗んでもらおうと画策する・・・そういう話です。慈善文化というものがある社会では、慈善活動がひとつのステイタスシンボルになるのですね。そして、それはえてして偽善に堕することがある。イエス様は、それを警告なさっているわけです。日本の場合は、慈善文化そのものがないので、これからの課題かもしれません。
 ともかくイエス様は、そういう偽善をたいそう嫌われました。聖書とくに福音書を読んでいてわかるのは、神様は真実なお方ですから、偽りというものを非常に嫌われるということです。偽善者がうわべをいかに美しく取り繕っても、神様の目から見ると、それは白く塗られた墓のようなもので、表面はきれいに見えていても、中身にはきたないものがいっぱいなのです。偽善の危険は、うわべを美しく整えているうちに、人をだますだけでなく、いつの間にか自分の中の邪悪な罪に気づくことができなくなって、神様の前に自分は正しいと思い込んで、ついには悔い改められなくなってしまうことです。そうして自分たちの偽善を暴く神の御子イエス様を、かえって憎んで殺してしまうということまでも、パリサイ人や律法学者や祭司長たちはしてしまったのです。これは実に愚かしいこと、悲惨なことです。偽善は自らを滅ぼしてしまう魂の癌です。


報いを期待してはいけない?


 報いを期待しての施しをすることは、サモシイことであるという考え方は、私たちの中にもあるでしょう。「お駄賃を期待してお手伝いをするのはさもしいことですよ。見返りを期待しないで、お手伝いをしなさい。」と、こんなふうに躾けられたという方が多いのではないかと思います。 あるいは、「今度のテストで数学で90点以上取れたら、ファミコン買ってよ。」とか言われたら、親はいい点を取ってほしいなあとか思いながらも、「なにを言っているの。勉強するのは、あなた自身のためでしょ。」とか、哲学的な親なら「数の世界の美を見出したこと自体の喜びに感動すべきではないか。」とかいうでしょう。
 何か報いを期待してよいことをするというのは、さもしいことだというふうに私たちは感じるわけです。
 昔、ドイツのケーニヒスベルクという町にインマヌエル・カントという哲学者がいました。彼はたいへん生真面目な人で、自分を律して生活をしていたそうです。町の人たちは、カント先生が散歩をしてくるのにあわせて自分の時計を合わせなおしたという有名な話があります。カント先生は、善と呼ばれている行いには二通りあって、ひとつはある報いを得るためになす善行(仮言命法)であり、もうひとつは報いなど関係なくその行為自体がよいという善行(定言命法)があるといいました。仮言命法は、お駄賃がほしいからお手伝いするとか、人からのほめ言葉がほしいから、施しをするという場合です。定言命法のほうは、人がほめてくれようとほめてくれまいと、貧しい人に施しをすることは人間として正しいことであるから施しをするということだということになります。定言命法は、「何かの報いのために」などというさらに上の目的がなく、それ自体が正しいことなので、無上命題とも呼ばれます。
 クリスチャンには真面目な人が多くて、キリスト教はご利益宗教ではないと言って、なんだかカント風にキリスト教的な生き方を考えている場合があります。それは、なんの報いも求めず、正しいことは正しいから行うという生真面目で、高潔な生き方です。確かにあのヨブの「主は与え、主は取りたもう。主の御名はほむべきかな。」という驚くべき信仰告白があることは事実です。でも、常にそうかというとそうではありません。ヨブだって、最後には主から豊かな報いをいただいているではありませんか。
いったい何人の人が、いっさいの報いを期待しない生き方だけで生きていくことができるのでしょうか。「何の報いも期待せず、ひたすら善は善であるがゆえに善をなすのだ」というこの教えに、誰が従うでしょう。そして、「何か報いを期待する心が生じたら最後、その行いは本当の善ではない、不純な行いなのだ。」と言われたら、私たちは実際にはなんの施しもやる気がなくなってしまうでしょう。それで、ある人たちは、「カントの無上命法は無力命法だ」と揶揄します。無上命法には、人を善へと励ます力がないからです。
 

天父の眼差しの下に


 山上の説教のこの箇所をよく読んでみると、イエス様はカントがいうようなしかつめらしい道徳律を教えていらっしゃるわけではないことに気づくでしょう。たしかに、イエス様は、人に見られたくて、人からの賞賛を得たくて善い行いをしてはいけませんとおっしゃいました。右手のしている施しを左手にさえ知らせるなとまでおっしゃいました。では、「誰も見ていず誰もほめてくれなくて、だれもご褒美をくれなくても、なすべきことをなしなさい」と、本当にイエス様は教えていらっしゃるでしょうか?そうではありません。
 

「6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(中略)・・・6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

 イエス様は、「『天におられるあなたがたの父』『あなたの父』が、あなたの施しに対して与えて下さる報いに期待していいよ。人々のこの世での賞賛でなく、あなたの天の報いに期待して、施しに励みなさい。」とおっしゃっているのです。そうです。クリスチャン生活とは、誰も見ていなくてもそれ自体善であるからなさねばならぬというような堅苦しい修行や道徳ではありません。キリスト者の信仰生活とは、生きておられる愛の人格的な父なる神との交流なのです。
 私たちの父なる神は、この上なく真実な愛のお方でいらっしゃり、また、私たちの魂の奥底まで見通していらっしゃるお方ですから、この父なる神が見ていてくださる事を意識しているならば、私たちはさもしい了見で「施し」をすることもないでしょう。同時にまた、私を愛し、私のために御子イエス様のいのちさえも惜しまなかった天の父に喜んでいただきたいという動機から、善い業に励むのです。
 一番大事なことは、生きておられる私たちの天の父が見ておられることを意識して生活することです。
 もうずいぶん前のことですが、ムーディーの科学映画というので、砂漠の世界を見たことがあります。砂漠の風景が映り、それがどんどん絞られてゆき、一粒の砂の世界が大写しになるのですが、その砂から一輪の花が咲いているのです。それは1ミリにも満ちませんが、じつに見事な造形でした。人知れず咲いて、そして人知れずかれて行くのです。しかし、天の父がその砂漠の一輪の花をご覧になっているのです。