苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

イサクとヤコブの晩年

 48:17ヨセフは父が右の手をエフライムの頭に置いているのを見て不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。 48:18そしてヨセフは父に言った、「父よ、そうではありません。こちらが長子です。その頭に右の手を置いてください」。 48:19父は拒んで言った、「わかっている。子よ、わたしにはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大いなる者となり、その子孫は多くの国民となるであろう」。
                 創世記48:17−19

 ヤコブは父イサクと同じように晩年には目がかすんでしまっていた。
 父イサクは年老いて肉の目がかすむと同時に、霊の眼もかすんでしまっていたように思える。鹿肉を食べたいという欲求にしたがって、彼は弟息子に対する神の選びを知りながら、兄息子を祝福しようとしたが、
結局は、妻に欺かれて弟息子ヤコブを祝福したのだった。イサクはすっかり霊的にも耄碌していた。
 他方、老いるほどにヤコブの霊の眼はますます冴えてきて、神のみことばを受けてイスラエル十二部族の将来について預言をし、そこにはメシヤ預言も含まれていた。兄のかかとを掴んで出て来たあの難物のヤコブは、すえつくりである神の力強く厳しい御手のなかで、時を経て、見事な神の器として完成された。
 イサクは若い日から父アブラハムの忠実な模倣者のように生きた従順な人だったが、晩年、霊的に衰えたように見える。彼の頂点は若い日のあのモリヤの山での出来事だったのだろう。他方、ヤコブは我の強い難物であったけれど、神の祝福を貪欲なまでに求めるという一点で神の特別な愛を受け、そして、見事な神の人となりその第二の名イスラエルは、民族の名とされた。名馬はことごとく悍馬(かんば=暴れ馬)より生じるという、その例か。