彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに遭っているのだ。」創世記42:21
「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう。」創世記42:28
エジプトで宰相となったヨセフのところへ十人の兄がやって来て、間者だと嫌疑を受け、シメオンが人質に取られてしまう。ところが、九人は帰り道、手に入れた穀物の袋をあけてみると、そこには代金として支払った銀が返されていた。彼らは驚き震えた。
ヨセフに対して、あれほどの仕打ちをした兄たちではあったが、腐っても鯛。彼らもまた幼い日から、摂理の神を教えられていた神の民だった。弟をエジプトに行く隊商に売り飛ばしてしまってから、彼らはいつか神からの恐ろしい報いがあるにちがいないとおののきながら暮らしていたのだろう。
摂理の神とは、生ける神である。生きていて、私たちの人生に働きかけて吉凶禍福すべてをもたらしたまう畏るべく恐るべきおかた。幼い日に、若い日に、生ける神を知らされていることがいかにたいせつなことか。