苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

地の塩、世の光

 「5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
  5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。 5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
                 マタイ福音書5:13−16


1 地の塩

(1)味気ない世界に味を
 塩の働きのひとつはうまみを引き立て、うまみを引き出すことです。ほんの一つまみの塩で、味気ないおかゆがおいしい甘味を感じさせるようになります。塩羊羹というお菓子がありますが、お砂糖に比べたら本の何十分の一に過ぎない塩で、甘味が増すのです。塩というのは、とっても素晴らしい力をもって、料理やお菓子の甘味やうまみを引き出すのです。
「あなたがたは、地の塩です」とイエス様はおっしゃいました。この世は味気ない世界です。イエス様が、「終わりの時代、愛が冷えてしまうので不法がはびこります」とおっしゃったように、この世はますます味気ない世界になっていくなあと感じないでしょうか。それは愛の冷えた世界です。
 世界を味気なくしてしまう現代社会の原因はなんでしょうか?最大の原因は、イエス様がおっしゃったように、カネがすべてだという拝金主義です。<すべてのものは金銭に換算して価値が量られる>といった見方が、この世を無意味で味気なくしてしまっています。拝金主義といえばイスカリオテ・ユダを思い出します。イエス様がいよいよ十字架にかかるためにエルサレムに行こうとされるとき、ベタニヤのマリヤがイエス様に惜しげもなく注いだ香油について、イスカリオテ・ユダが「これは300デナリもするじゃないか。もったいない。」と値積りしました。彼にはマリアの十字架に向かおうとするイエス様への思いやりや愛がわかりませんでした。ただ300デナリという金銭に換算しただけです。なんでもかんでもカネに換算する人は、すでに拝金主義の偶像崇拝者です。
 恋人が一生懸命に夜なべをして手編みのセーターを作ってくれたら、「なんだこんなのシマムラに行けば、1000円もしないでもっといいの売ってるよ。」などというとしたら、なんと味気ないことでしょう。こんな愚劣な男は、誰が作ったかしれないブランド物の1万円のセーターなら満足するのでしょう。カネがすべてなのです。
 大きな話をすれば、カネをたくさん持っている奴が勝利者であるという自由主義経済の価値観によって、日本はますます味気ない社会になっています。2000年「規制緩和」という名の下に、大規模小売店舗出店規制法が撤廃され、小売店の出店が無法化されました。いまや、日本中の町という町の郊外には、派手な看板のついた巨大量販店が立ち並び、お客を吸い取られた臼田や野沢や小諸の商店街や全国の商店街は、シャッターで閉ざされたまるでゴーストタウンです。カネの力が昔からあった商店街も老舗も伝統も地域社会も破壊しました。味気のない社会です。
 カネがすべてという考え方から、「規制緩和」という美名の下に、労働者派遣法も破壊され「無法化」されました。企業経営者の倫理は崩壊したのです。その結果、今日、1700万人つまり2人に一人は非正規労働者で、多くの人は一生懸命働いても生活が成り立たなくなっています。

 イエス様は私たちキリスト者に「あなたがたは地の塩です」とおっしゃいました。日本にクリスチャンは1パーセントと言われます。でも、塩の働きということを考えると、私たちは自分が少数派であることを恥じることはありません。お汁粉に一つまみの塩で、うんと甘さが増します。少数派のクリスチャンであっても、ちゃんと祈り、ちゃんと考え、ちゃんと働くならば、神様のために素晴らしい働きができるのです。私たちが、イエス様のくださった御霊の働きによって、この世にあってイエス様のみことばにしたがって、神様の愛に生きていくとき、私たちは塩として味のある世界を作り出すことができます。効率がすべて、金儲けがすべてといった無意味で味気ないこの世界を、味のある世界とされるのです。


(2)防腐効果
 塩の働きはまた、ものを腐らせないことです。漬物を塩で漬けるのは、うまみを引き出すと同時に保存が利くようにするためです。
 世の光放送のラジオ牧師羽鳥明先生が御自分をクリスチャンへと導いた同級生について、こんな証しをなさっていました。羽鳥先生が旧制中学生のときは日本は戦時下にありました。各学校には、配属将校が置かれていました。ある将校が来ると、教壇にたって言い放ちました。「ヤソはわが国体に反する、アメリカの宗教じゃ。ここにヤソはおるか。名乗ってみろ。俺がどうにかしてやる。」すると、一人の同級生がすくっと立ち上がって言いました。「私はクリスチャンです。イエス・キリストがわたしの罪のために、十字架で死んでよみがえられたことを信じています。」そして静かに座りました。その男は、いつも柔和でにこやかでした。そして、彼の周りには汚れたものがなく、周囲の人々をきよめる不思議な力をもっていたのです。」

 「あなたがたは地の塩です。」と主イエスはおっしゃいました。この世界は、神様に背を向けて、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢で汚れがますますひどくなってゆこうとしています。世と世の欲は滅びます。その中にクリスチャンは派遣されて、イエス様のみことばを信じてしたがって行けば、周囲が不思議にきよめられていきます。イエス様の清さが、クリスチャンを通して周りに浸透して行き、この世がソドムとゴモラのように、あるいはポンペイのように、腐りきって滅びてしまうのを防止することになります。
「あなたがたは地の塩です」と主はおっしゃいました。私たちは、味気ない世界に、うまみを引き出し味をつけ、腐りつつある世界をきよくして腐らせないという大切な役割をになうのです。


2 世の光


 また、主イエスは私たちにおっしゃいます。
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
 14節のことばは、この掛け軸にあるようにわたしたち小海キリスト教会のテーマとなっています。塩も光もともにこの地上、この世界で、イエス様の弟子たちの果たす役割を表しています。両者は、どうちがうのでしょう。たぶん、塩が地味な目立たないところで働くのに対して、光の方は目立つ働きであるということになるでしょう。塩は、見えないかたちで浸透して行って、味気ない世界に味を付けたり、腐りそうなものの腐敗を防いだりしますが、光は見えるかたちでの神の証しを意味するということができましょう。
 人目に立つために偽善的な良いわざについてイエス様は言われました。「あなたの右手のしていることを、左手に知らせるな。」けれども、人目に立つことを恐れるあまり、なすべき良いわざを行なわないとしたら、これまた主のみこころにかなわないことです。電車の中に空き缶が転がっているのを見つけたけれど、だれも拾おうとしない。けれど、ほうって置けば、誰かがそれを踏んで転んで大怪我をするかもしれません。そんなとき、『右の手のしていることを左の手に知らせるな』とイエス様がおっしゃったから、人目に立つよいことをするのはやめよう、などと思ってはいけないのです。人目についても、つかなくても、善いことはするのです。
 電車でおばあさんがふらふらしていたら、さっと立ち上がって席を譲ると目立つから「右の手のしていることを左の手にしらせない」ためだと、寝たふりをしてはいけません。さっと立ち上がって、席を譲るとおばあさんも助かるし、そういうことが社会であたりまえのことになれば、もっとこの社会はお互い住みやすくなります。

 ところで、光というものはどれだけ大切なことでしょう。先週北海道の室蘭・登別で、強風で送電線が倒れ大規模な停電が起って非常にこまっていました。日ごろは、当たり前のようにしてスイッチを押せばあかりがつくのですが、これが実は当たり前のことではなかったのだということに気づきました。
 光はどんな役割を果たすでしょう。
植物は太陽から注がれる光を受けて、光合成を行ない、小さな種から大きな作物となって行きます。直径一ミリほどの種が、大きな白菜になったり、大根になったりします。降り注ぐ光の力です。光はエネルギーであって、そのエネルギーがいのちをはぐくむのですね。
 「あなたがたは世界の光です」と主イエスはおっしゃいました。イエス様が光そのものですが、私たちもまたイエス様の光を映してこの世を照らす光としての役割をになっています。光はエネルギーであって、いのちを育む力です。元気を失っている人、希望を失って悲しんでいる人のそばに寄り添って、静かに話を聞くことによって、イエス様のいのちのエネルギーをお分かちできるとしたら、そのとき、あなたも世の光です。喜ぶ者とともに喜び、なく者とともに泣くならば、あなたも世の光です。そういう共感をしてくれる人がいたら、と思っている人は今の世界にはとても多いのですね。
 今、娘が干し柿を作っています。太陽の光がなければ、干し柿はかびてしまうだけのことですが、日光のおかげでかびもせず、渋が消えて、甘さが増して行きます。日光のエネルギーには殺菌作用までもあるのですね。

聖書のみことばで光についてふれたものを思い巡らして見ましょう。 
詩篇119:105「あなたのみことばは、私の足のともしび、わたしの道の光です」
とあります。夜道を歩いているとき、どこへ行けば良いかわからないとき、ともし火の光はどれほどありがたいことでしょうか。真っ暗な嵐の海で、座礁を恐れながら港に入ってくる船にとって、灯台の光は、いのちへの導き手です。
 「あなたがたは世界の光です」と主イエスは私たちにおっしゃいます。人生に悩み、暗闇の中にある人にとって、クリスチャンは真理といのちに導く灯台の光です。私も、高校時代、そういう友人に出会って、牧師のもとへ、教会へ、イエス様へと導かれたのでした。当時、身近な者の自殺という出来事があり、生きることに悩んでいたのでした。その人は考えたら文字通りいのちの恩人です。彼女もまた、世界史の授業のなかで、さんざんキリスト教の非難をした教師が「ここにクリスチャンはいるか」という問に応じて、立ち上がって「私はクリスチャンです。」と答えた人でした。
「あなたがたは世界の光です」。だから、自分がキリスト者であることを隠してはいけません。人生の暗闇に迷い、沈没しそうな難破船のような状態に陥っている人が、あなたのそばにいるかもしれません。あなたという光がなければ、その人は本当に人生に絶望して沈没してしまうかもしれないのです。
「私はクリスチャンです。私はわたしの罪のために十字架にかかって死に、よみがえってくださったイエス・キリストを信じています。」いつでも、どこでも、もし問われたならば、このようにあなたの中にある信仰と希望を告白することにしましょう。