苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

争いが起こらないうちに争いをやめよ

 数年前、四川大地震のあと、現地に出かけたことがある。そこで、被災した人々、とくに震災孤児のために、献身的に働いているある外国人と中国人キリスト者に会った。何日かともに時を過ごして、ともに祈って、同じ主イエスを信じる兄弟であることを実感した。
 それよりはるか以前、長男がまだ家内のおなかにいたころ、船で上海とさらに奥の町に出かけたことがある。そのときにも、何人かの中国のキリスト者たちに出会った。「イエス様を信じることは、最高の喜びです。」とあかしする三人の若い姉妹と兄弟の顔は、キリストの輝きを映していた。
 ここ数年、隣の隣の村に野菜の収穫作業のため毎年やってくる中国人労働者たちに、わずかな機会にすぎないけれど、聖書の話をする機会を与えられて来た。ことばはほとんど通じないけれど、漢字をもちいて意思疎通をはかり、ともに賛美をする。一緒に笑ったり、考えたりするなかで、イエス様の十字架の意味が分かると、ぱっと輝く顔を見てきた。
 こういう方たちの笑顔を思い出すと、国の指導者と呼ばれる老人たちが欲と面子のために喧嘩をしたからといって、なぜ両国民が憎みあい殺しあわねばならないのかと思う。喧嘩なら当人同士だけで勝手にやってくれ、マスコミを使って国民を巻き込むなと思ってしまう。血を流さなければならないのは、若者たちなのだ。


 だが、尖閣問題をめぐっての両国民の動きを見ると、問題は権力者だけではないとも思えてくる。中国では、大規模なデモがあちこちで起こった。そのほとんどは官製デモ(背景は複雑)であったらしいが、それにしても大衆の反日・愛国のエネルギーがあふれている。かつての文化大革命を思わせる暴動である。
 日本では、それほど激しい動きはないものの、こういう状況になると、「国土と国民を守る責任ある政治」とか勇ましげなことをいう政治家に大衆の人気が集中し、平和を説く文化人たちは大衆に軽蔑されている。だが「国土と国民を守る」と演説する政治家は、福島第一原発事故を引き起こし多くの国民を苦しめている自分の責任を口にしないのに、なぜか大衆の支持が集まる。こんな空気の中で平和を訴えるほうがよほど勇気がいることなのに、平和を訴える者が臆病者呼ばわりされる。奇妙なことだ。
 田原総一郎氏が何かに書いていたが、先の戦争でも、いったん戦端が開かれてしまうと、戦争を鼓舞する新聞ばかりが売れるようになり、反戦の論調の新聞はまったく売れなくなってしまったそうである。戦前は反戦の論調で書いていたある新聞は、廃刊か、変節かを迫られて、ついに変節して戦争を煽り立てることになったという。そもそも群衆というものは、福音書に見るように、無責任で暴力的なものなのかもしれない。彼らは、日曜日にはしゅろの葉を振って「ホサナ」と歓呼の声でイエスを迎え、金曜日には「イエスを十字架につけろ」と叫んだ。群衆の熱狂というのは、ワールドカップやオリンピックにおける熱狂と同質のものなのではなかろうか。ワールドカップの最中に、「サッカーなんてただの玉けりだ」と書く新聞は売れないどころか石を投げられてしまうだろう。


 ことがらの発端はなんだったのか?もともと尖閣の領土問題は、ややこしくなるから棚上げにしておこうというのが長年にわたる両国指導者のやり方であった。だが都知事尖閣諸島のことで国民を煽りたて、カネのあまっている都民が乗せられて寄付し、野田首相は軽率極まりない判断で都知事に応じて、これ以上悪いタイミングは考えられないほど最悪のタイミングで国有化を宣言した。中国では、全人代がまもなく開かれようとしていて、国家の指導部としては強気の反日発言をしなければ親日派売国奴)とレッテルを貼られて吊るし上げを食らう危険がある。その上、野田首相は、中国温家宝首相が「国有化はするな」とくぎを刺した翌々日に国有化宣言をしてしまった。中国の首相は面子丸つぶれである。喧嘩を売ったのは日本の首相である。だがどうもあの人は、それを自覚していないらしい。日本の外務官僚はなぜ首相の「国有化宣言」を止めなかったのか、その責任も重いと思う。あるいは意図したことなのか?


 昨日、リンクした「耕助ブログ」がいうように、客観的にいえば、両国の経済的な相互依存関係はたいへんに密接なものなので、戦争をするメリットは少ないから戦争になる可能性は低い。だが、戦争はコントロールの外でえてして軍部の暴走から始まることもある。そして一旦始まると、火事のように消すのはむずかしい。両国民は頭を冷やすべきである。これはサッカーではないのだ。万が一戦争になっても、今、無責任に勇ましげなことを言っている政界や言論界の老人たちは痛くも痒くもない。現実に、殺し、殺されなければならないのは、ある人の息子であり、ある人の夫であり、ある人の恋人である若者たちである。「自分の息子、夫、恋人が、いや自分が尖閣に赴かねばならない海上保安官なら、自衛官なら・・・」と考えて見ることが大事だと思う。


「争いの初めは水が吹き出すようなものだ。
争いが起こらないうちに争いをやめよ。」箴言17:14



☆頭の冷却材をもう一つリンク
田中宇尖閣で中国と対立するのは愚策」
http://tanakanews.com/121011japan.htm