苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

義に飢え渇く    

2012年10月7日
小海キリスト教主日礼拝説教

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」マタイ5:6

   

1 飢え渇く

「飢え渇く」ということばは、飽食の時代の日本に住んでいる私たちには体験としては実感がないというのが正直なところではないでしょうか。朝食をとって、おなかがぺこぺこにすかないうちに昼食になって、三時ごろおやつをとってしまうと夕食になってもまだ空腹感がそれほどにないという生活をしている現代人が多いのであろうと思います。飢え渇くという実感がない。けれども、イエス様の時代にかぎらず人間の歴史におけるほとんどの時代、確実に食べることができることができるようになったのは、ほんのこの頃のことですし、現代でも世界では毎年1500万人、4秒に一人飢え死にしています。
 渇くということも、この水の豊かな日本ではあまり経験することがないでしょう。パレスチナに出かけた人のことばですが、「バケツ一杯飲んでもなおいやされないほどの渇き」というがあるそうです。のどが渇くというのでなく、体全体が渇いてしまう、そういう渇きがかの地ではあるのですね。15分ごとに水を補給しつづけなければ生命に危険があるというそういう環境での渇きです。飢え渇くということは、それがなければもはや生きることができない、そういう切実な求めを意味しているわけです。
 賛美歌に「谷川の流れを慕う鹿のように・・・」というのがあります。詩篇42篇からとった歌詞です。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、
神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。
いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。
人が一日中「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。」

 ここには、生ける神様抜きには、決して生きてゆけない、そういう渇きが表現されています。
 イエス様は「義に飢え渇く者は幸いです」とおっしゃいました。「幸いです」とおっしゃるのですが、私たちは「義」に飢え渇いているでしょうか。義がなければ生きていけないというほどに。


2 義とは

 ところで、「義」とはどういう意味でしょう。昔、私の母が教会に行き始めたころ、「この間、牧師さんがギー、ギー、ギー、ギーて言うてはったけど、ギて、なに?」と話していたのを思い出しました。当時、教会ではパウロのローマ書が説教されていて、そこで「信仰による義」について何度か話されたのです。日本語では、ふつう正義という言葉は使ってもただ義ということばは用いませんからね。
「義」というのは基本的には文字どおり「ただしいこと」という意味ですが、社会正義、神が裁きを行う義、神が罪人を義とするゆるしとしての義、人間関係における義理などいろいろな意味があります。では、ここでは特にどういう意味で正しいことなのでしょうか。聖書解釈の原則からいうと、文脈のなかで、どういう意味で用いられているのを見ることが基本です。山上の説教を見回すと、一番近くに八つの祝福の第八番目に「義」ということばが用いられています。
「5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。」
 10節と11節は並行していて、同じ趣旨が繰り返されています。「義のために迫害される」とは、すなわち、「主イエスのために迫害される」ということです。つまり、義とは「イエス様に従うこと」言い換えると、義とは主イエスに対する忠義です。そして、派生的に、曲がった世の中に正義が実現してゆくために戦う主イエスにしたがって、自分も世にあって正義が実現するように戦うという意味になります。「義に飢え渇く者は幸いです」と言われるこの箇所で義というのは、主イエスに対する忠義を中心とし、派生的には社会正義を意味していると読むのが穏当です。

3 義に飢え渇く

 したがって、「義に飢え渇く」とは「イエス・キリストに従うことに飢え渇くこと」であり、「正義の道を進む主イエスに従って、正義の道を歩んで行くことを切望すること」です。水がなければ生きていけない、食べ物がなければ死んでしまうように、「義に飢え渇く」とは、キリストに従うことなしには生きている甲斐がないというほどに、「キリストに従うことを切望していること」です。
 キリストに従うとはどういうことでしょうか。イエス様は弟子たちにおっしゃいました。「わたしについてきなさい。」キリストに従うとは、キリストの後についていくことです。その足跡に倣おうと懸命について行くことです。
 ではイエス様の生き方とはどういう生き方だったのでしょう。私たちが、弟子として、イエス様の足跡にならうとはどういうことなのでしょうか。イエス様の生き方、それは、天の父なる神から命じられた贖い主としての生き方でした。イエス様は、天の父のみこころにしたがって天からこの世に遣わされました。そして、福音を宣べ伝え、貧しい人たちに奉仕をし、権力ある人々に対してはその顔色を恐れないで真実を告げました。そうして、私たちの罪のために十字架で死を遂げられました。
「義に飢え渇く」ということは、イエス様の弟子として何とかこの世界を救うために自分の人生を神様にささげることです。以前に一度話したことがありますが、H牧師は、「贖罪的な生き方」と言いました。その意味は「他人が落としたゴミを、自分には関係ないとは言わないで、自ら進んで拾う生き方」です。キリストの御足の跡をたどるなどと美しく表現されるけれど、それは具体的にいえば、他人が落としたゴミを進んで拾うことです。主イエスは私たちの落とした罪というゴミを一身に引き受けてくださったのですから。
エス様の贖罪は、天の御座を捨てて地上に降り、福音をのべ伝え、貧しい人々に仕え、十字架にかかって復活されることによって成し遂げられました。弟子としての贖罪的な生き方とは、安全地帯に引っ込んでいるのでなく世に出て行き、第一にキリストの十字架の福音の宣教をすることです。しかし、伝道をしてクリスチャンが増えたからといって、それで自動的に世の中がよくなるわけではありません。クリスチャンが、悔い改めて生き方を変えるときに初めて世の中はよくなるのです。そこで、主の弟子として贖罪的な生き方とは、第二に、社会に仕えることです。それには二つの側面があることを、イザヤ書58章6節と7節は告げています。
「イザヤ58:6 わたしの好む断食は、これではないか。
  悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、
  しいたげられた者たちを自由の身とし、
  すべてのくびきを砕くことではないか。
58:7 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、
  家のない貧しい人々を家に入れ、
  裸の人を見て、これに着せ、
  あなたの肉親の世話をすることではないか。」
ひとつは「悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くこと」です。この世になされている不当な制度を打ち砕くことです。
もう一つは7節「飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ・・・」といわれていることです。貧しい人々とパンを分かち合うということです。
キリストの弟子の社会的実践にはこの二つの面があります。第一の面の日本での実践例をひとつ紹介しましょう。日本では女性の人身売買を公認する制度が、文明国では類のない「公娼制度」として300年以上続いていました。そのために女性は逃げ出しても警察に連れ戻されました。当時は、役人や政治家とやくざが癒着して、女性たちを食い物にしていたのですから、これに反対することは道を間違えている権力に対する戦いでもあったわけです。
そういう遊郭は、日本の都市部の各地にありました。しかし、キリスト教会とくに山室軍平を指導者とする救世軍では明治33年から、身売りされた女性を助けるため「廃娼運動」をはじめました。遊郭が並ぶ通りで、救世軍が「逃れの場」であることを知らせるチラシをまき、女性の解放を訴えました。救世軍の活動に対して遊郭側はヤクザによる襲撃で対抗しました。このような事件が報道され、対処せざるを得なくなった政府はついに女性の意思に反する監禁を禁止する規則を発布したのでした。
 第二の面は、貧しい人々を助けるということです。廃娼運動によって、遊郭から解放されたとしても、貧困の家庭から売られてきた女性は行き場所がありません。職業の訓練も身についていません。そこで救世軍は女性にまず寝食の場を与えました。そして、読み書き、そろばん、裁縫の技術などを教えて正業に就くまでの世話をしました。

 今日では、公娼制度は廃止されたから何も問題はないでしょうか。
 福島の子どもたちはどうでしょうか。4万2千人の子どもたちの健康調査が行なわれましたが、内43パーセントにのう胞が発見されました。放射能汚染のない地域では発生確率は0.8パーセントです。こういう子どもたちを救うためには、一つは悪のくびきを打ち砕くため国に集団疎開に関する保障をさせることが必要です。もう一つは、その実現をぼんやり待っているうちに子どもたちは具合が悪くなりますから、十分でなくても安全な地域に保養させてあげることです。それで子ども保養プロジェクトということが始まりました。
 それは東電や政府がすべきことだとおっしゃるでしょうか。その通りです。政府と東電を正すことは大事なことですが、そういう戦いをしているうちにも子どもたちの被曝はひどくなります。贖罪的生き方というのは、他人が捨てたゴミを自ら進んで拾う生き方なのです。
 私たちクリスチャンたちが素朴に思っているのは、「伝道をしてクリスチャンがふえれば世の中はよくなるのだ」ということです。イエスの恵みに与る人が増えることはすばらしいことですが、クリスチャンが増えたからといって、自動的に世の中がよくなるわけではありません。いくらクリスチャンが増えても、クリスチャンが生き方を根本的に変えなければ世の中は変わりません。クリスチャンが悔い改めて、生き方を変えるときはじめて世の中は変わるのです。悪のくびきを打ち砕き、貧しい人とともに食べ物を分け合うならば、少しずつ神の正義がなって世の中はかわるでしょう。主の再臨における完成に希望を持ちつつ、主イエスがこの地上にくだって、世のために生きてゆかれ十字架にかかられたように、私たちもこの世にあって主のみこころをなしてゆきたいのです。

「主イエスは、悪のくびきを折り、虐げられた者を解放された。また貧しき者とともに生き、人々の痛みを負い、病を癒された。主は私たちを弟子として、この世に遣わされる。私たちは決して主と同じようにはできないが、主に愛され命をもって贖われた感謝から、できる限り主の願いに応える者でありたい。」(内藤新吾)


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注>1893年新島襄らの戦いにより群馬県公娼制を廃止。1930年から41年の間に13県が廃止。