苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

日本人の宗教観

 「いのちのことば」にこの間載せられた文章を、ここに置いておきます。少し加筆しました。

藤の豆・・・食べたことはまだありません。<追記>毒があるそうです。食べなくてよかった。





無神論教育
 「死んでしまえば土に返るだけ。神なんていないよ。」高校生のころ筆者はそう思うようになっていました。キリスト教主義の幼稚園に通ったものの、卒園後は教会から離れました。小学生のころよく眺めていた図鑑には、しっぽの生えた人が焚き火をしている絵がありました。その後、NHKや中高の理科教育によって、神が人を造ったのではなく、偶然が偶然を生んでアメーバから徐々に人間へと進化してきたのだという「常識」に染められて行きました。大半の日本人は成人するまでに同じような無神論への洗脳を受けています。
 しかし、日本人は「神などいない。」と言いながら、正月になれば神社に参り、彼岸には仏壇に線香を焚きます。でも、「本当に信じているのか」と改めて問われたら、「べつに・・」と笑うでしょう。そのくせ、神社参拝を拒む人や仏壇を拒否する人に対しては「形だけ拝んどけばいいのに。」と非難します。不思議です。こういうのが大方の日本人の宗教性というものではないでしょうか。

鰯の頭も信心

私の父は、五十歳で洗礼を受けたとき、証の中でこう話していました。「かつて私は、宗教というものはなんでもいいから、信じることが大事なんだと思ってきました。けれども、聖書の話を聞くようになって、まず驚いたのは、信じること以上にたいせつなのは、何を信じるかということなのだということです。」
 多くの日本人は宗教ならばなんでもよい、信じる心が尊いというふうに思ってきました。「鰯の頭も信心」というのは、日本人の宗教観を端的に表しています。今日でも、神社で手を打っている人に、「この神社の祭神はどういう神ですか?」と聞いたら、多くの人は「縁結びの神とかいったけど、名前は知りませんよ」などと答えるでしょう。日本人にとっては、何を拝んでいるかということは二の次で、大切なことは「みんなと一緒に拝むこと」なのです。
 なぜ日本人の多くは、宗教においては信じることが大事であって、信じる内容は鰯の頭であろうと石や木であろうとなんでもよいと、考えるようになってしまったのでしょうか。それは、恐らく日本人はあまりにも長く創造主を知らずに来てしまったからだと思います。宗教などと言うものは総じてみな作り話の気休めにすぎないのだから、「秘すれば花、秘せずんば花なるべからず」としてきたのです。もともとそういう宗教観だったところに、近現代の日本人は無神論的教育を受けているので、ますます宗教は実質のない作り話と受け止められるようになり、もし宗教に価値があるとしたら、それは不安なときの気休めに程度のものと見なされるようになったのでしょう。
 しかし、十八年前、宗教にたいする日本人の見方に大きな変化が起りました。オウム真理教事件によって、多くの日本人は、「宗教なら何でもいい」という認識を改めました。では、日本人はまじめに宗教の中身を知ろうとするようになったかというと、そうでなく、むしろ「宗教はこわい」と忌避するようになっただけです。なぜかといえば、日本人にとって宗教というものは、もともと「ためになる作り話」にすぎなかったからです。それが「ためにならない作り話」であるなら、かかわる価値などどこにもありません。

葬式仏教の意味
 では、現代日本人は本当に聖なる物を何も信じないのかといえば、そうではないと思います。旧ソ連では無神論教育を行ないましたが、国民はモスクワの赤の広場のレーニン廟に参拝していました。いかに無神論教育をしようとも、創造主は人の心に永遠への思いを与えられましたから、人は聖なるものに関する感覚を持っています。ですが造り主を見失ってしまった場合には、被造物に聖なるものを求めるのです(ローマ1:21-25)。
 日本人の多くは仏教徒だといいます。ならば仏典を読んで理解しているかといえば、そんな人はほとんどいないでしょう。日本人の多くはいわゆる葬式仏教徒なのです。釈迦は死を目前にしたとき、僧侶である弟子たちに「葬式は檀家にさせておいて、おまえたちは修行に励みなさい。」と言ったのですから、仏教と葬式は本来無関係なのですが。
 私は、十九年間信州の松原湖バイブルキャンプのある町で伝道してきました。松原地区にはかつて寺があったそうですが、ある時、火事で焼けてしまいました。困ったのは、檀家の一族でした。祖先祭りができません。彼らは相談して、寺の再建にはお金がかかるので、近所の諏訪神社に祖先祭りをお願いすることにしようと決めました。以後、寺は廃され、その一族は神道式で葬儀・先祖祭りをするようになったそうです。ここに見るように、多くの日本人にとっては仏教も神道も取替え可能な着物にすぎません。日本人が聖なるものとして大切にしている本体は祖霊を祭ることです。
 仏壇の中には、仏像や仏画があり、先祖の名を記した位牌が置かれています。では、もし火事になったら、日本人はどうするでしょうか。十中八九、仏像や仏画はそっちのけで先祖の位牌だけ持って逃げ出します。もし焼いてしまったら、「ああ、おじいさんを焼いてしまった」と悲嘆にくれるでしょう。葬式仏教徒にとって、仏教は単なる衣にすぎず、祖霊崇拝が本体だからです。しかもあの位牌への執着は物に霊が宿るというアニミズムの一種です。
 こうした現象を見ると、創造主を見失った日本人は、いろいろな被造物を拝みますが、格別、祖霊を聖なるものとして祖霊を中心にした「家」の和を保つことを最重要なこととして歩んで来たことがわかります。ですから、祖先崇拝を拒むキリスト者はその和を破る者として非難されるのです。
というわけで、私たちは、日本人を無神論的洗脳から解放し、かつ、祖先をも造ってくださったお方こそ礼拝すべきお方だということを紹介する必要があります。
(いのちのことば2012年10月号の原稿に加筆)