苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

適正なものの見方


1.真の絶対者である神を見失って以来、人間は、神ならぬものを絶対化する傾向が常にある。これを偶像崇拝という。

2.絶対者である神を見失っているとき、人は、経済、教育、科学、仕事、家、会社、国、教会、恋愛、芸術、法律・・・などさまざまなものを絶対化・偶像化してしまう。これら人生と世界を成り立たせている諸要素は、ただしく分をわきまえて使用されるならば有益なものであろうが、絶対化されると人生と社会と自然を破壊する。仕事はよいが、仕事中毒は家庭を破壊し人を過労死にいたらせる。家はよいが、家第一主義は個人を圧殺する。国はよいが国家主義は、戦争を引き起こす。企業活動は社会を豊かにするが、これも絶対化されると、自然破壊・家庭破壊を引き起こす。

3.絶対者である神に立ち返った私たちは、諸要素のそれぞれが分をわきまえて機能するように務めなければならない。つまり、神以外のあらゆる物事を相対化する視点をもたなければならない。相対化するとは、その意義と限界を正しく位置づけることである。

4.神以外のあらゆる物事を相対化する方法のひとつは、聖書という眼鏡によって物事を見ることである。無から万物を造られた神の前では、あらゆる存在にはそれなりの意義があるが同時に限界がある。

5.物事を相対化するもうひとつの方法は、歴史的視点をもつことである。永遠から永遠に存在するのは、ただ神のみであり、他のすべてのものは、あるとき生じてまたあるとき滅びてゆくものである。歴史的視点から諸事物の発生と消滅を観察するとき、それが持つ意義と限界を知ることができる。しかし、「歴史主義」という思想的偶像崇拝もあるので注意すべきである。すべてを歴史的方法によって相対化してしまうこともまた、まちがいである。

6.サンプル・・・「国」の聖書的・歴史的見方について
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20100210