苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

件の島について

 
   



 次の選挙が黄色信号の韓国大統領は、竹島(韓国名、獨島)に上陸し、反日的・愛国的言辞をもって国民の支持率を上げようと図った。応じてわが国の民主党政権野田首相も、例のごとく「不退転の決意」と陳腐なことばで国民の人気をひきつけようとしている。民主党惨敗確実と思われる解散・総選挙を目前に、もしかしたら逆転勝利のチャンスかもしれないという思いが野田氏の脳裏をかすめているであろう。
 内政がうまく行かないと外に敵を仕立てて愛国心をあおって票集めをするのは、むかしからの権力者の常套手段である。両国民としては、これまで積み上げて来た民間の交流の実を台無しにしないように頭を冷やすことが肝要だと思う。
 「私たちの国籍は天にあります。」と本気で信じている両国のキリスト者は、天から地に派遣されている者としての自覚をもって、こういう空気に乗せられるのでなく、むしろ平和をつくる者でありたいと思う。まず、事実はどんなことなのか調べてみた。

●1905年より前の歴史について・・・島名は混乱するので「件(くだん)の島」と呼ぶ。
 ウィキペディア竹島」の項の中ほどに韓国と日本の歴史解釈対照表がある。記述は、日本寄りの印象はあるが、比較的冷静に書かれていると思う。韓国のウィキペディアではちがうのだろうが、筆者はハングルが読めないので悪しからず。
1.件の島は韓国領だという古い歴史的根拠は次のようなもの。1145年に編まれた朝鮮の古書『三国史記』によれば、西暦512年に新羅鬱陵島にあった于山国を滅ぼして服属させたとある。以後、『世宗実録』『新増東国輿地勝覧』『東国文献備考』などに「于山島」という記述があり、この「于山島」とは件の島の古称だというのが韓国の主張である。
 だが、『三国史記』が「于山島」と呼んだ島は、件の島とは別の島であると思われる。なぜなら、512年に新羅に征服された于山島には住民が定住していたとあるが、水も出ない件の島に人間の定住は不可能であるからである。18世紀半ば以降、朝鮮の複数の古地図をも参照されたい(読者は、ウィキペディアをご自分で読まれたい。)
 件の島が韓国領だという近代の理由。1900年10月、時の朝鮮皇帝・高宗は鬱陵島を欝島と改称して同島を郡に格上げする勅令を発した。この勅令にある「石島」が例の島であり、日本より5年も早く領有を国際的に宣布したという。
 だが、この勅令では欝島郡の範囲は「縦が八十里ほど、膻は五十里」としていて(朝鮮で一里は400m)、鬱陵島の南東92kmにある件の島は、欝島郡の範囲外に位置する。つまり朝鮮王朝は1900年の時点で、件の島を自国領とは認識していなかったといわざるを得ない。

2.他方、日本外務省の説明を読むと、1618年(または1625年)以後、幕府から鬱陵島(当時の「竹島」の呼称)渡海免許を出して、毎年交代で一回渡航し、あわび、あしかの漁をしていた二つの家があったということを根拠に領有権が確立されていたとする。当時は鎖国していたから外国と認識していたら渡航許可を出すはずがないという理屈である。
 だが、わざわざ渡航許可を求める必要が感ぜられ、かつ、年に1度しか渡航してはだめだとしていたという事実は、外国ではないけれど自国の領土であるという認識がなかったという証拠でもある。淡路島に渡航するのに年に1度だけ許可を得てというようなことはない。それゆえ、果たしてこの程度で外務省がいうように、領有権があったと言えるほどの実効支配だったといえるかというと、相当疑問がある。日本側としても、1905年より前、件の島を領有したという歴史的根拠は希薄である。

 というわけで結局、筆者が知る限り、1905年まで日韓両国にはいずれも件の島を領有していたといえる歴史的根拠は薄弱である。1905年まで件の島は無主物だった。水も出ず、食料もとれない島は、海底資源が視野に入る以前は、気にも留められなかったというのが実情だ。件の島の領有権がほんとうに問題になるのは1905年以降の話になる。

●1905年以後の経緯
 1904年(明治37年)8月22日第一次日韓協約が締結された。このとき朝鮮半島での日露の戦闘は終了し、韓国は事実上日本の占領下に入った。翌1905年1月28日、日本は閣議決定で例の島を日本の領土に編入させた。同年11月17日第二次日韓協約が締結され、事実上、韓国は日本の保護国となる。
 日本側は、「1905年日本が領有を宣言したとき韓国は異議を唱えなかったから、領有は国際法に照らして合法的だった」と主張する。国際法に照らして合法というのはその通りだろう。だが、韓国にしてみれば、当時、自国は日本の占領下に置かれ、まもなく保護国とされ、さらに1910年には日韓併合されようとしている状況だったので、異議を唱えたくても唱えようがない状況だったのだから、日本の領有権宣言は一方的だと主張する。国際法というのも、帝国主義列強が談合してつくったものだと批判できないこともない。
 その後、日本は日中戦争・太平洋戦争を始め、敗戦を迎える(1945年)。日本はGHQの支配下に入り、GHQの施政は1952年4月28日にまで及んだ。1951年(昭和26年)8月10日に米国はラスク書簡によって「竹島は日本の領土」という米国政府の意向を韓国政府に示したが、韓国はこれを不服とし、半年後の1952年(昭和27年)1月18日、大韓民国大統領李承晩が例の島は自国の支配下にあると宣言し、同時に近海を含む李承晩ラインを設定し、1965年日韓基本条約締結まで越境したとみなした日本漁民を多数拿捕・死傷させた。これが韓国側の一方的な不法行為だったという日本の主張は、(その背景に韓国併合の恨みがあるにしても)そのとおりだと思う。
 
●以上を、さらに整理。
1.1905年以前、両国が、件の島を領有していたという歴史的根拠は希薄である。例の島は1905年1月27日まで無主物だった。

2.1905年1月28日に日本が閣議決定で無主物である件の島を日本領に編入したとき、韓国は反対しなかったと日本は主張するが、このとき韓国は日本の占領下に置かれていたため、例の島の領有について主張することができなかった。日本の竹島領有は一方的だ。

3.1952年1月18日、日本が敗戦後GHQの支配下にあって、日本が件の島の領有について主張することができない状況にあったとき、韓国が件の島は自国領であると主張して占領し、今日にいたっている。これも一方的である。

4.というわけで、歴史的に見ると、1905年、無主物の島について、韓国を銃で黙らせておいて「俺のだ。文句あるか。」と宣言したのが日本。1952年、日本がGHQ占領下にあってものが言えなかったとき、「あの島はもともと俺のものだ」といって軍事的に占領したのが韓国。
 水も出ない岩の島をなんで両国は欲しがるのか。島は岩山でも周囲が豊かな漁場である。近年海底にメタンハイドレートがあることも報道されている。
 ことが経済問題だけなら頭を冷やして解決できよう。だが、韓国民としてはかつての韓国併合の屈辱に対する恨みを、件の島をめぐって少しでも晴らしたいという感情があるのだろう。だから「それはそれ、これはこれ」で、そう簡単には解決しない。

<感想メモ>筆者には大切な韓国人の友人、尊敬する友人が何人もいる。なんとかならないものかと思う。少なくとも、両国首脳に願いたいのは、せっかくの民間レベルで育てて来た交流や友情を、自らの選挙対策目当てのパフォーマンスで壊さないで欲しいということである。両国のキリスト者は「私たちの国籍は天にある」という信仰告白を実のあるものとしたい。