苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

歴代自民党政治家たちの核武装発言と原爆投下直後の長崎

(注)内藤新吾牧師があちこちから集められた自民党政治家の核武装に関する発言集。I牧師が内藤師の講演を聞いてまとめられたもの。資料としてここに置いておく。
 下の方のビデオは、原爆投下直後の長崎。

1954年、3月1日ビキニ水爆実験の何と翌日に、科学技術振興追加予算として原子炉築造のための2億3500万円が提出された(この額はウラン元素数字235から取られたとも言われる)。予算提出の首謀者は、改進党の中曽根康弘議員。提案趣旨演説を担当した同じく改進党の小山邦太郎議員は、「近代兵器の発達はまったく目まぐるしいもので(中略)、米国の旧式な兵器を貸与されることを避けるがためにも、新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またはこれを使用する能力を持つことが先決問題である」と、原子力と軍事の問題を露骨に語り、議会を通過した。

1957年5月7日、岸信介首相参議院予算委員会で「核兵器という名前がつくだけで皆が憲法違反であるというが、そうした憲法解釈は正しくない。今後の発展を見ることなく核兵器という名がつくだけで、どのようなものも駄目だとするのは一律的に言うことはできない」と述べた。彼はまた同年の外務省記者クラブにて、核武装合憲論を打ち出している。すなわち「核兵器そのものも今や発展の途上にある。原水爆もきわめて小型化し、死の灰放射能も無視できる程度になるかも知れぬ」、「現憲法下でも自衛のための核兵器保有は許される」と。また彼は1958年に東海村原子力研究所を訪問しているが、そのときのことを回顧録で、「原子力技術はそれ自体、平和利用も兵器としての使用もともに可能である。どちらに用いるかは政策であり国家意思の問題である」と記している。
増田防衛庁長官は1967年12月20日参議院予算委員会で、「戦術的核兵器は外国に脅威を与えるのではなく、本土を守るためのものなので、保有することができる」と述べた。
高辻内閣法制局長官は1968年2月10日、参議院予算委員会で「核兵器はもってはならず、通常兵器は持っても良いと憲法に規定されていない。憲法に・‥戦力を保有しないという規定がある。しかし、現在、自衛隊法にもとづいて自衛隊が存在している。・‥自衛隊憲法上、容認されるという解釈、まさにそれが兵器にたいする解釈でもある。すなわち、核兵器とその他の兵器は、憲法上では何の区別もない」と述べた。また彼は、核兵器を防御用と攻撃用に分ける基準はその威力や攻撃力ではなく、それが大陸まで到達できるものであるとしても、日本国民を守るためのものであるならば防御用兵器であるとするのが政府の立場なのか、との公明党の伏木議員の質問に、「大体、そのとおりである」と答弁した。

倉石農林相は1968年2月7日の記者会見で、「若い世代のために平和憲法を修正すべきであり」、「日本も原子爆弾と30万名の軍隊をも持たなければならない」と述べた。

1968年6月13日、自民党の菊池議員衆議院内閣委員会で、「非核三原則について言うほど馬鹿なことはない。時と場所によって核兵器を持つ必要が生じるものである。もし、日米安保条約が破棄され自力で日本を守らなければだめな場合が到来すれば、原子爆弾水素爆弾も持たなければならない」と述べた。

1968年3月14日、岸元首相は中部経済団体連合会で、「現実的に近い将来に核兵器がなくなる可能性はなく、今後、現在の通常兵器が過去の竹やりのような存在」になることが予見される実情で「わが国が核武装することは当然である」と述べた。現職の首相から退いた岸氏が個人の資格で述べた発言は、彼が首相に在職中のときの本心をそのまま露わにしたものである。
日本が「非核三原則」を堅持すべきだと主張したことによって「ノーベル平和賞」まで授与された佐藤首相は、1969年6月2日の衆議院本会義で、「非核三原則というのは政策が変わったり内閣が変わったりすれば いつでも変更できるものである」と述べた。このことは、特に深刻に受け止めるべき問題である。
1969年に外務省で作成された『我が国の外交政策大綱』には、「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、当面核兵器保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともにこれに対する撃肘(せいちゅう)を受けないよう配慮する」という記載がある。
自民党石原慎太郎議員は、日本が今後、大国と「対決するにあたり対等な外交的地位を確保するためには、昔風に言えば『大鑑巨砲主義』に進むべきであり、現在の『大鑑巨砲主義』は核兵器以外にない」と述べ、われわれが英国やフランス程度の核兵器を持たなければ、相当大きな譲歩をしなければならない事態が必ず生じるであろう」とした(『国防』1969年11月号)。
防衛庁伊藤防衛局長は1978年2月18日、衆議院予算委員会で「戦術核兵器であるとしても、それが『完全に防衛的なもの』であるならば、それで装備することは可能である」と述べた(東京1978年2月18日発、『時事通信』)。

園田直外相は1978年3月2日、衆議院外務委員会で「憲法の規定自体に拘束されて日本が核兵器保有できないとするものではない」と述べた(東京1978年3月2日発、『時事通信』)。
福田赳夫首相は1978年3月8日、参議院予算委員会で「国の武装力を核兵器で装備する決定を採択できる」と述べた(モスクワ1978年3月26日発、『タス通信』)。
中曽根首相1984年6月4日、核兵器の使用を許容しないもう一つの原則を「非核三原則」に付け加えるべきであるとした野党の要求を拒絶し、「日本が核兵器の使用を許容しない原則」を採択することは「核兵器保有国の自主権にたいする侵害になりうる」ために「国際法の見地からも疑向をもたらす問題」であると述べた(東京1984年6月5日発、『共同通信』)。
茂串俊内閣法制局長官は、「日本には固有な自衛権があり、最小限必要な自衛力を持つことができる。したがって、その範囲で核兵器保有できるというのが政府の見解」であると述べた(『朝日新聞1984年3月16日)。

1959年に「自衛隊」の統合幕僚会議事務局が作成した『第二次防衛力整備計画にたいする軍事的要請』という文書には、次のように書かれている。「軍事装備は元来、精鋭なもの、強力なものを要求するので、核兵器を導入することは軍事的に当然の要求である。われわれの防衛作戦において核戦争を全面的に否定することはきわめて困難であり危険である。また、アメリカが戦略的にも戦術的にも核戦力を中心に装備していることから、連合作戦でアメリカは核兵器を使用する可能性がある。したがって、アメリカと連合して共産陣営に対抗するわが国も、核戦争遂行能力を保有することは望ましいと考える。軍事的に見るならば、核戦争に対処する能力はもちろん、防御用兵器を中心とする戦術兵器程度の使用能力は保有すべきである」。
 1969年に「防衛庁」が作成した『自主防衛計画』という文書は、日本が独自の核兵器とそれを運搬する大陸間弾道ミサイルを開発、所有することについて明らかにした(英語版『朝日イブニングニュース』1969年6月27日)。

防衛庁」の1970年『防衛白書には、「小型の核兵器が自衛のために必要な最小限のもの、他国に侵略的脅威を与えないものであるならば、保有することは法理的に可能であるといえる」と指摘されている。 日本で原子力開発が本格的に推進された1971年に当時の中曽根防衛庁長官は、第四次『防衛力整備計画』を発表し、「日本憲法は防衛用核兵器を禁止していない」とした(ワシントン1971年7月8日発、『時事通信』)。この中曽根発言は、「平和憲法」に核兵器保有を禁止する条項がないことを根拠として、日本が核兵器を所有できるだけでなく生産するであろうことを示唆したものであり、当時の国内でも大きな社会問題として物議を醸した。

 日本は、1961年の国連総会第16回会議で、核兵器使用禁止に関する決議案に賛成した。しかし日本は、1967年の国連総会第22回会議と1972年の第27回会議、1976年の第31回会議、1977年の第32同会議で、核軍縮決議案の表決をすべて棄権した。また、1978年の国連総会第33回会議、1979年の国連総会第34回会議、1980年の国連総会第35回会議、1981年の国連総会第36回会議で、日本政府は、「核兵器の使用は人類にたいする犯罪」であるとする核兵器使用禁止に関する決議案、軍縮の最優先順位を核軍縮におくことを強調した決議案、核兵器を所有しない国に核兵器の新しい配備を禁止する決議案、中性子爆弾生産を禁止決議案の表決で、すべて反対した。
 日本政府はその理由として、「核兵器使用を一切禁止するのは核抑止力と両立しない」「核の均衡を破壊しうる」ということをもちだした。
日本政府は、一連の核兵器使用禁止決議案に反対し始めた頃に開かれた、1978年11月27日の日米安保協議会で、『日米防衛協力ガイドライン』に合意した。『日米防衛協力ガイドライン』は、アメリカの核戦略体制を極東全域で補充完成するものである。この時期的な一致は、日本政府が核武装化を志向しており、アメリカとの核同盟を実現しようとしたことを示している、と近隣アジアからは見られている。

1992年11月29日の朝日新聞記事には、ある外務省幹部が、「個人としての意見だが、日本の外交力の裏付けとして、核武装選択の可能性を捨ててしまわないほうがいい。保有能力は持つが、当面、政策として持たないという形でいく。そのためにも、プルトニウムの蓄積と、ミサイルに転用できるロケット技術は開発しておかなければならない」と漏らしたことを報じている。

宮沢喜一元総理は、雑誌『AERA』の取材に答えて、次のようにある議論が始まっていることを示唆している。「もし日本の憲法が軍隊の海外行動を許すように変更されることになれば‥・核兵器についてのある決定が行われると思われる。・‥もし核兵器が陸上に存在することができないならば、人々は潜水艦に載せたらどうだろうか? というかもしれない」(1994年3月号)。
2002年4月、自由党小沢一郎党首は、「中国の脅威に対して、日本は商業炉の使用済み燃料から簡単に数千発の核弾頭を製造できる」と語り、それに続いて5月末には福田官房長官が記者会見で、「日本国憲法は戦争を否定しているが、それは核保有を禁止していない」と語った。また福田官房長官は翌6月にも記者会見で、核兵器を「専守防衛なら持つことができる」、非核三原則についても「今は憲法だって変えようという時代だから、変わることもあるかもしれない」と発言、大問題に。
2006年安倍政権のとき、中川昭一政調会長が「核武装の議論ぐらいしてもいいんじゃないか」と言って物議を醸したが、これに対して麻生外相もこれを弁護する発言をした(核武装の検討をと)。麻生自身2005年にワシントンで同じことを発言している。そして実は安倍内閣官房長官だったとき、2002年早稲田大学での講演会で、「日本も小型であれば原子爆弾保有することに何も問題はない」と発言したのを週刊誌にスッパ抜かれた。ただしこの間題について安倍は「発言を外に一切出さないことを学校側も了解した。それを週刊誌が報じたことは学問の自由を侵す」「私は質問に、核兵器保有は最小限で小型で戦術的なものであれば必ずしも憲法上禁じられていないとする政府見解を紹介した。当然、前提として非核三原則がある」とは反論をしているが、本音が出たものであろう。
2011年8月16日、石破茂自民党政調会長報道ステーション・「原発シリーズわたしはこう思う」の収録で、「日本は(核を)作ろうと思えばいつでも作れる。1年以内に作れると。それはひとつの抑止力ではあるのでしょう。それを本当に(原発を)放棄していいですかということは、それこそもっと突き詰めた議論が必要だと思うし、私は放棄すべきだとは思わない。」と語った。ご存じ、非常に視聴率の高いニュース番組で、このような発言をしても政治生命を失わないばかりか、賛同の声さえ巷より聞こえてくることは、恐ろしいことであり、いかにこれまで同様の発言が自民党および財界から出されてきて、国民は慣らされてしまっていることかと、考えさせられる。
(以上、他にもいろいろあるが)

以上、引用。