苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

企業経営と国家経営の本質的ちがい

 穀物メジャー多国籍企業)は、世界の国土を荒廃させ飢餓をもたらしてきた。彼らは、広大な農地と安い労賃の働き手を見つけると、そこで大規模・単作・機械化・化学農法で食糧生産をする。最初はめざましい成果が上がるのだが、10〜20年ほどすれば、その農地は荒れ果てて収穫量は激減する。そうなれば穀物メジャーは、その農地を放棄して他国に生産拠点を転じてしまう。そのときには、すでに伝統的農業技術は失われており、残されるのは、荒廃した農地と失業者と飢餓。・・・このようなことが1960年代後半から世界各地で起きてきた。大規模・単作・機械化・化学農法が導入された当初、もっとも顕著な成功例とされたインドのパンジャブ州では、「二十年後には疲弊した土壌、病害虫に蝕まれた作物、借金を負い、絶望した農民」と「紛争と暴力が残された」だけだった。(ヴァンダナ・シヴァ『緑の革命とその暴力』、『神と土と人』2(2)参照http://church.ne.jp/koumi_christ/shosai/kami-tuchi-hito.pdf
 工業においても同じようなことである。多国籍企業の企業経営者にとって、自社の生き残りと業績アップが至上命令なので、特定の国家・国民に対する責任感は薄く、コストが1銭でも安い国へと工場を転じていく。そのとき工場労働者たちは突然職場を失って途方に暮れる。国家としても、企業の多国籍化によって企業からの税収があてにできなくなり、近代国家の枠組みはゆるんで行き、反動はあったとしても国境線のあいまいな「帝国」の時代へと移ってゆく・・・そんなことが10年ほど前に読んだ野田宣雄『二十一世紀をどう生きるか』には書かれていた。なぜ野田政権は消費税に固執するかといえば、法人税を上げるなら企業は外国に逃げるぞと経団連のあのふくよかすぎる会長に脅かされているからである。

 今般の野田首相原発再稼動の決断について内田樹さんが書いていることを見て、上のことを思い出した。企業経営者にとって自社がとりあえず今期存続し、今期業績アップすることが至上命令だから、企業には国土と国民のことを託すことはできない。また、企業は経営破たんしたら、その先はないから、長期の利益のために短期の利益を犠牲にすることはできない。原発を使えないとなれば三年ほどで経営破たんすることの見通せる関西電力の経営者が、すべての原発再稼動を目指すのは企業経営者として、まあ普通というかやむをえないことであろう。本当はそれでよいとは思わないが。会社がひとつ倒れても国は存続できるが、国土が人が住めないまでに半永久的に汚染されたら、もう国の先が無い。
 しかし、国の首相がそれでよいのか。国家にとって国家財政がたいへん重要な要素であることはいうまでもないが、それがすべてではなく、それより上位の価値がある。国家にとっての至上命令は、長期的な国民の生命と国土の保全である。国というのは、かりに経済破たんしても(もちろんそんなことがあるべきではないが)、国土と国民が保持されていれば、とりあえず存続することができる。たとえばアルゼンチンは破産したけれど、ちゃんと国として生き残っている。この点、特定の国土も国民も関係のない多国籍(=無国籍)企業とは本質的に異なっている。いったん原発事故の発した放射能によって国土が失われたら、国は多国籍企業のように他に引っ越すというわけには行かない。たいへん難しいギリギリの決断なので同情するけれど、筆者にはどうも、松下政経塾出身の野田首相経団連のスポークスマンに見えてならない。
http://blog.tatsuru.com/2012/06/11_1431.php

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」1テモテ2:1,2



     ナデシコ 撫子