苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

水草という名字(1)


     オモダカ

 長男がフェイスブックで「水草」という人を見つけたというので、私も調べてみたら数名の方が、名古屋方面と広島福山方面にいることを発見した。水草という名字は非常にめずらしくて、子どもの頃から広島の一軒の親戚以外で同姓の人には会ったことがない。フェイスブックの威力はすごい。
 「はじめてお便りします。私と同じ珍しい名字なので、ご挨拶を差し上げました。」というふうな内容のメッセージを6通送ったら、うち二人からお返事をいただいた。そのうちのお一人の名古屋の水草さんが教えてくださるところによれば、東京にも水草さんがいるとのこと。その東京の水草さんは、「由緒正しい」のだそうだ。
 江戸水草家の人によれば、「私の水草家は、当代にて47代目 幕藩体制では、尾張国 武具方、勘定方等を仕りました。当水草は、筑後中納言尾張水草と申します。」とのこと。尾張水草家というのは尾張徳川家に仕える八百石の家臣だった。江戸水草家というのはその尾張から江戸の上屋敷詰めをしていた水草家なんだそうである。江戸水草さんのおうちには43振りの刀があって、一振りは「備前長船道光(応仁元年八月)という家宝だそうだ。家紋は「丸に立ち沢潟(おもだか)」。沢潟というのはまさに、田んぼに生えているイモのような草の水草だ。水草という名字にちなんで、こういう家紋にしたのだろう。
 尾張水草家は、幕末期に薩長の倒幕で上屋敷を失い、南は広島、北は北越まで転戦し、関東水草家は、江戸尾張藩邸を頼りに上野戦争に加わり敗れたとのこと。「43振り」もの刀を廃刀令をくぐりぬけて所蔵し続けたということは、もしかしたら明治新政府に対して反旗を翻す用意をしていたのではあるまいかとも思われる。
 昨日、会議のために上京したのだが、その昼食時に、ふと上の話をしたら、名古屋から来られている方が、「名古屋には『水草町』というのがあるんですよ」と教えてくださった。グーグルマップで見てみたら名古屋市北区にそういう町名がたしかにある。ここは江戸水草さんによれば尾張水草家の屋敷があった場所なのだそうである。明治維新になって、徳川とつながりが深い水草一族はここを追われて、愛知県春日井に移住してお百姓になったのであろうと推察される。
追記2015年2月>
 しかし、『角川日本地名大辞典』によれば、字名の水草は当地にかつて芦の茂る沼が所在したことから付けられたものということ。江戸水草さんの説とどちらが本当なのだろうか?どちらも本当であると言う可能性も否定できないが。


 さらに東京の水草さんは、平安時代までさかのぼって、始祖は橘芿兼佐前守水草正明大道だとして、そこから数えて現在47代目なんだそうだ。おもしろいことに、水草正明というのは神戸に住む私の兄の名前と同じだ。もちろん100パーセント偶然。まあ、これほど遠い話になると真偽の程はよくわからないと思ったが、東京の水草さんによれば、奈良・京都・国立美術館で確認済だとのこと。・・・私の関心事としては、もっとさかのぼって、大陸のどのあたりから自分の先祖が来たのかなあということなのだ。妙にシルクロードが懐かしく感じるのだが、それは調べようがない。

 若いころ私は家紋にも家系にも全然関心がなかったので、自分の父の家紋がどういうものであるかすら知らなかった。広島にあった水草の家には、幼稚園の夏休みに一度限りたずねたことがあるだけである。マツダキャロルという軽自動車の後ろの席に3人詰め込まれて、暑くて死にそうになりながら出かけた。神戸で暮らしていた幼児の目から見ると、福山市内からは外れたずいぶん山の中であった。家の近くに池があって、その水面をへびがスーッと泳いでいくのを見た。また、家の裏のにんじん畑をがまがえるがのそりのそりと歩いていた。私や兄よりも五つ六つ上の男の子と、私たちと同年代の女の子がいた。女の子の黄色い靴袋に「水草***」と書いてあるのが不思議な感じがしたものだ。お兄ちゃんは、トノサマガエルをつかまえてビニール袋に入れて、プレゼントしてくれたなあ。今気づいたのだが、私とカエルのえにしはあの時に始まったのか。
 そんな幼児期の記憶から、わたしは、「池のそばにあるから、明治になったときに水草という名字を適当に付けたのかなあ」と思ってきたのだが、10年ほど前に調べたら、江戸時代後半期の水草信治郎(生没年不明だが、息子保太郎は安政三年つまり1856年生まれ)までさかのぼることができた。息子の生年から推測して、1830年頃、天保の時代の生まれの人ということになろうか。尾張水草家と江戸水草家については、東京の水草さんがおっしゃるとおりなのだろうが、広島水草家についてはよくわからない。幕末に広島まで転戦し、そこに定住することになったというのがどうも解せない。
 かりに江戸水草さんがいうように、水草信治郎が尾張あるいは江戸から「幕末に広島に転戦し」たとすると、それは何戦争なのだろうか?第一次長州征伐は1862年、第二次長州征伐は1866年である。すでに息子保太郎は安政3年(1856年)に生まれているが、まさか6歳や10歳の息子を連れて従軍するわけはない。だとすると、1856年より前に信治郎は広島に来ていなければならないのである。1856年より前に尾張や江戸から派遣軍があったという戦争など広島方面で起きたという話は聞かない。・・・どうも広島福山方面の水草家は、流れがちがうように思われる。
 もし家紋が一致したら、幕末ではなくもっと早い時期になんらかのつながりがあったという可能性もなくはないが、真相は謎である。今度、広島福山の親戚に電話して家紋を聞いてみようと思う。この歳になってみると、なんだかルーツさがしはちょっと面白い。
 新約聖書の冒頭にイエス様の系図があるように、聖書は家系図というものをたいせつにしている。しかし、もう一方で家系を誇る人々に対しては、救いと家系は関係ないと述べている。家柄でなく人柄なのだ。これも面白い現象である。

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト系図。・・・・」マタイ1:1
「それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」ルカ3:8


続き
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20120614/p2