苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

近江聖人 その2

 

 もし藤樹が切支丹であったとしたら、いったいいつどこで彼は切支丹に触れたのだろうか?清水安三氏の仮説で、私がなるほどと思った点のみをかんたんにメモしておく。
 藤樹は10歳から27歳(1617年から34年)を伊予の国ですごしている。ここ伊予の国(愛媛)とその近隣には多くの宣教師が訪れ、切支丹の影響が強かった。最初に来た宣教師たちは次の通り。
1559年ポルトガル人のヴィレラである。
1585年コエリヨ。
1589年ナヴァロ。
1572年には大伴宗麟がこの地で基督教の伝道を後援した。
1585年福島正則の影響した、1250名の改宗者を得た。
しかし、1614年徳川家康によって切支丹大追放令が出されて宣教師は長崎へ。
小豆島(しょうどしま)には早くから切支丹宗がはいっており、宣教師たちが伊予の国に切支丹の影響を及ぼす。
1617年フェルナンデス、フェレイラ、小市が四国をおとずれて伝道した。

 藤樹は10歳から13歳(1617年から20年)伊予の国風早郡柳原に住んでいた。ここ柳原には、今日でも切支丹の史跡が残っている。
 一つは上記の徳川の禁教令で殉教した和田弥右衛門の墓である。この殉教の地までの田んぼ道の辻ごとに切支丹石地蔵が8つ立っていて、これらが以前は14基あったという。ローマ教会の十字架への道行きの14像である。
 しかも、この地の祠のご神体は「太乙真神」と書かれた紙片である。藤樹は一神教を唱えているが、その神の名は大乙真神だった。(『大上尊大乙神経序』)「太」と「大」のちがいはあるが、清水氏はこの点にふれていない。
 1621年、藤樹は柳原から大洲に移っているが、同年ジョバンニ・バプティスタ・ポルロという宣教師がこの地を訪れて伝道している。あるいは、接触があったのかもしれない。
 レオン・パジェス「日本切支丹宗門史」1626年の項目に次のようにある。「四国には一人の異教徒がいて、彼は支那哲学とイエズス・キリストの教とは同じだと信じ、ずいぶん前から支那の賢人の道を守って来たのであった。彼は一伝道士に会って、己が誤りを知り、聖なる洗礼を受け、以来優れたキリシタンとして暮らした」。・・・もしかすると、これは藤樹のことではあるまいか、と清水氏はいう。
 『日本切支丹宗門史』は岩波文庫に入っているので、これから読みたいと思う。でも古本三巻で、ちょっと値が張る。