苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書の読み方、考え方、生き方について

 私はイエス様を信じてまもなく神戸の増永俊雄牧師にウェストミンスター小教理を紹介され、大学で哲学を少しかじったというところから来たのか、あるいは生来そういう傾向があるのか、ことがらを演繹的に捕らえる傾向が強いように思う。演繹的なとらえかたというのは、スパッと切れて見通しが立ちやすいという利点があるが、反面、弱点は無時間的で抽象的で内実を欠くものになってしまうことである。中身がないのに形だけが整ってしまって、わかったつもりになってしまう。
 そういう欠陥が自分の考え方にあることに気が付いて、解決を求め始めたときに得た一つ目の手がかりはキルケゴールから学んだ「主体性」ということだった。他人事でなく、自分をそこに投入して読み、生きる。「そのようにおまえは本気で生きているのか、生きると決断するのか」と問いつつ、聖書を読む。だが、この実存的な読みかたの欠陥は、シェーファーがいうように、信仰が非合理な飛躍になってしまいうということだった。
 中身を欠く抽象性に陥ることなく、主体的でありながら非合理的なものでなく、落ち着いた、そして実践的な聖書の読み方と生き方はどこにあるのだろう。そんな課題をかかえて神学校に入った。そこで得たことは歴史ということだった。一つには丸山忠孝先生の教会史、もうひとつは大樹君との出会い。大樹君は、生来の歴史家である。私は自分のことばの空虚さを悩んでいたのであるが、大樹君は具体的な「時」のなかで生きる内実を得て、それがことばとなって立ち現れてくる、そういう人だった。それは彼が、関ヶ原の時代から続く商家の出であることから来ているように思った。

 庭の畑の小さな花。名前はなんですか?
追記>図鑑で見たら、イヌガラシというそうです。