苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

家と無常

また元暦二年のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。或はくづれ、或はたふれた(ぬイ)る間、塵灰立ちあがりて盛なる煙のごとし。地のふるひ家のやぶるゝ音、いかづちにことならず。家の中に居れば忽にうちひしげなむとす。はしり出づればまた地われさく。羽なければ空へもあがるべからず。龍ならねば雲にのぼらむこと難し。おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。
 その中に、あるものゝふのひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、ついぢのおほひの下に小家をつくり、はかなげなるあとなしごとをして遊び侍りしが、俄にくづれうめられて、あとかたなくひらにうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりうち出されたるを、父母かゝへて、聲もをしまずかなしみあひて侍りしこそあはれにかなしく見はべりしか。子のかなしみにはたけきものも耻を忘れけりと覺えて、いとほしくことわりかなとぞ見はべりし。かくおびたゞしくふることはしばしにて止みにしかども、そのなごりしばしば絶えず。よのつねにおどろくほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやうまどほになりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。(鴨長明方丈記』)

 元暦(げんりゃく)二年(1184−85年)といえば、壇ノ浦で平家が源氏との戦いに敗れて滅びた年である。貴族の時代が終わり、武士の時代に移り行く激動の時は、大地も揺れ動いていた時代だった。というか、大地が揺れ動き、町々が燃えて滅びたことによって、統治機構への不安と不信がひどくなって、時代が動いたと考えるほうが適切かもしれない。
江戸時代末期の安政年間にも列島全体は数度にわたる巨大地震で揺れ動いて、これに適切に対処できない幕府に対する怨嗟の声が列島の各地に澎湃と沸き起こったのだった。不安に陥った民衆は世直しの必要を叫び、「おかげまいり」ブームとなって、列島は異様な雰囲気となった。

安政元年11月4日 M8.4 震源=遠州灘沖(愛知・静岡の南)『安政東海大地震
安政元年11月5日 M8.4 震源=潮岬沖 (和歌山・徳島の南)『安政南海大地震
安政元年11月7日 M7.4 震源=豊予海峡(大分と愛媛の間)
安政2年(1855年)、10月2日(西暦11月11日)江戸の安政の大地震と大火災。
以降余震が9年にも及んだという。
 http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20100423/p1

 ところで長明の『方丈記』は、人の世のはかなさを「行く川の流れはたえずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたは、かつ消え、かつ結びてひさしくとどまりたるためしなし。世の中にある人と棲家とまたかくのごとし」という。無常観というのは中世文学に一般的なことであるが、長明の特徴は、その無常が人と棲家の遷り変りとして把握・表現されていることである。
 長明自身、世にあった頃は、最初父方の祖母の大きな屋敷に住んでおり、やがて三十余歳のとき家運衰えて、その十分の一中くらいの家に住むようになる。だがこの家は川が近かったので、洪水の危険をいつも感じていたという。
 そして五十歳で出家し、六十歳近くになって大原山に庵を結んだ。サイズは方丈つまり約3m×3mの組み立て式で解体・移動可能。二番目に住んだ家の百分の一の大きさにも及ばないという。その題名も「方丈記」であるから、やはり家にこだわりにこだわっている。隠者らしくもない奇妙な男である。まあ、そこが長明のおもしろみである。
 そういえば、米国にはトレーラーハウスで生活をしている人たちがいたなあ。夏は北のほうに住み、冬は南の方に住むという生活ぶりである。だが、彼らのトレーラーハウスは方丈ではなかった。ある牧師が、トレーラーハウスに入れてもらって、「うちよりもずっと広くてデラックスだったよ。」と話していた。
 

<同日追記
イランの大地震のとき、古老が「地震はだれひとり殺しは​しなかった。わしらが人間造った家が人間を殺したんじゃ​。」と言っていたことを思い出しました。方丈の家に長明​が住んだのは、そんなことを思ったからかもしれません。​家は文明と言い換えてもいいかもしれません。






RETIREMANさんのHPより



我が身、父の方の祖母の家をつたへて、久しく彼所に住む。そののち縁かけ、身おとろへて、しのぶかたがたしげかりしかば、つひにあととむることを得ずして、三十餘にして、更に我が心と一の庵をむすぶ。これをありしすまひになずらふるに、十分が一なり。たゞ居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を造るにおよばず。わづかについひぢをつけりといへども、門たつるたづきなし。竹を柱として、車やどりとせり。雪ふり風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所は河原近ければ、水の難も深く、白波のおそれもさわがし。すべてあらぬ世を念じ過ぐしつゝ、心をなやませることは、三十餘年なり。その間をりをりのたがひめに、おのづから短き運をさとりぬ。
 すなはち五十の春をむかへて、家をいで世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿あらず、何につけてか執をとゞめむ。むなしく大原山の雲にふして、またいくそばくの春秋をかへぬる。』こゝに六十の露消えがたに及びて、さらに末葉のやどりを結べることあり。いはゞ狩人のひとよの宿をつくり、老いたるかひこのまゆをいとなむがごとし。これを中ごろのすみかになずらふれば、また百分が一にだもおよばず。とかくいふ程に、よはひは年々にかたぶき、すみかはをりをりにせばし。その家のありさまよのつねにも似ず、廣さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。