苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神が人となられたのだから   (キリスト1)

         マルコ4:35−41
           2012年3月11日小海主日礼拝


新年になって、信仰告白の順番に、啓示、神、人と見てまいりまして、本日は、救い主イエス・キリスト様がどういうお方であるか、その跡に従って生きるとはどういうことかを学びます。

1. キリストは真の人

 ガリラヤ地方での伝道生活がカペナウムで始まって、それほど経っていない頃のことです。イエス様はある日の夕方、がリラヤ湖の向こう岸へ渡ろうとなさいました。「さあ、向こう岸へ渡ろう。」
エス様は12人の弟子たちの舟に乗り、そして他の舟もイエスの舟について行きました。ヤコブ、ペテロ、ヨハネ、アンデレは漁師ですからガリラヤ湖は庭のようなものです。けれども、このガリラヤ湖はときに気難しい湖で、突然荒れることがあります。ヘルモン山から下る冷たい風がガリラヤ湖上空の温められた水蒸気を含む空気にふれると、一天にわかに掻き曇り、激しい嵐となるのです。はたして、このとき、激しい突風が弟子たちの舟、あとにくっついてきた舟をも襲いました。小さな舟は大波のなかを木の葉のようにもみくちゃにされ、水をざぶんとかぶってしまいます。弟子たちは舟が沈没しないように必死で水をかきだす作業をしますが、またも波が襲ってきます。弟子たちは、もはやこれまでと思いました。
 ところがイエス様はこの嵐のなかでどうしていましたか?呆れたことに、28節「イエスはとものほうで枕をして眠っておられた」とあります。
 ここにはイエス様の二つの面が現れています。
一つは、イエス様はまことの人だということです。神であるイエス様は、私たちを救うために、人間としての弱さをもってお生まれくださったのです。人が神になったのではありません。神が人となられたのです。人が祭り上げられて神となるのは宗教ですが、神が人となられたことは福音なのです。
カペナウムで「悔い改めて福音を信じなさい。神の国は近づいた。」という宣言以来、朝から晩まで癒しをもとめてガリラヤ中の人々が押し寄せてくるという状況のなかで、イエス様はひたすらに福音を伝え、悪霊を追い出し、癒しを行なわれました。イエス様は私たちと同じように生身の肉体をもったお方でしたから疲れて、泥のように眠っていらしたのです。
 イエス様は「悲しみの人で病を知っていた」のです。神様でいらっしゃいますが、私たちと同じように、疲れや痛みや悲しみを知る生身の人間としておとめマリヤから生まれたのです。イエス様は罪こそ犯されませんが、私たちの弱さに同情することがおできになるのです。私たちの痛みも苦しみも、イエス様はみな理解していてくださいます。
 ギリシャの哲学者は、論理的に考えて、絶対者である神は、悲しみ、痛み、苦しみ、疲れとはまったく無縁のおかたであると考えたそうです。もし、神がそういうお方であるとしたならば、私たち人間のことを理解し同情してくださることはありえません。けれども、現実に生きていらっしゃる神、イエス様は、きょうも私たちのことをわかってくださるお方なのです。
 だから、みなさん。イエス様にはなんでも相談していいのです。こんな小さなこと、こんなつまらないことまでイエス様にお願いしたのでは申し訳ないと考える必要はありません。失った針一本をさがすときにもお祈りをし、世界の平和のためにもお祈りをささげるのがクリスチャンの特権です。
 まただからこそ、イエス様は人間の代表として十字架にかかることがおできになりました。主イエスは犬釘で十字架の柱に腕と足とを打ちぬかれはりつけにされ、その苦しみをもってイエス様は私たちの罪の代価を父なる神の前に支払ってくださったのです。

2. キリストは真の神

 嵐の小舟の記事に戻ります。弟子たちはこの嵐の中、舟が転覆したら溺れ死んでしまうと思いました。恐怖です。ところが、イエス様はともに枕してすやすやと眠っていらっしゃいました。なぜこんなことが可能なのでしょう。
エス様にとっては、この嵐の湖の大波に揺れる小舟が父なる神様のふところ、あるいはゆりかごの様に感じられたからでしょうね。イエス様は、「どうしてそんなに怖がるのです。信仰がないのはどうしたことです。」と弟子たちに呆れておっしゃいました。私など怖がりですから、そりゃ死が押し迫っているのに弟子たちが怖いのがあたりまえだと思ってしまいますが、イエス様から見ると、それは父なる神様への信仰、信頼がないからなのでした。
エス様は、ほんとうに御父に信頼しきっていらっしゃいました。この信頼感は、人間業を超えているなあと思います。永遠からの父と子と聖霊の愛のまじわりに生きておられればこそです。この平安は、まさにイエス様は神でいらっしゃることの現れです。イエス様は、まことの神なのです。まことの神が人となられたのです。

 そうして、もうひとつ、イエス様が神であられるしるし。荒れ狂う湖に向かってイエス様は一喝なさいました。「だまれ、静まれ。」すると、湖は大凪になりました。
このとき弟子たちは恐怖に包まれて、互いに言いました。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう?」弟子たちの恐怖は、嵐を恐れた恐怖とは質の異なるものでした。こんなに身近に恐るべき力をもっている方がいらっしゃるという恐怖でした。
 いったい、風や湖がいうことを聞く方とはどういうお方ですか。現代でも風や湖にいうことを聞かせることができる科学はありません。台風、竜巻、地震・・・これらを人間はどうすることもできません。風や湖がいうことを聞くかたとは誰か?それは、風や湖を支配下に置いていらっしゃるお方です。つまり、自然法則をもその御支配の下に置いておられる主権者にほかなりません。イエス様は、万物の創造主なる三位一体の神の第二の位格であり支配者である神にほかなりません。
 「神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
  神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。」創世記1:6−10
 イエス様は、あの創造主なる神が人となってこられたお方です。

 以上のように、この嵐の小舟の記事を味わうときに、私たちはイエス様はまさしく神であられるお方が、まさしく人となってくださったのだという事実を知るのです。キリストは神性と人性を兼ね備えていらっしゃいます。神学者はこれをキリストの二性一人格といってきました。つまり、イエス・キリストは永遠から永遠にいます神であられ、かつ、時満ちてキリストは人としての性質をまとわれて、まさしく人となられたということです。

3.神人キリストと私たち
 
もうすこしキリストが神であられ、かつ人となられたことについて、聖書全体から、まとめておきみましょう。まず、イエス様が神でいらっしゃることについて。
 ヨハネ黙示録の最初と最後の章には、キリストは「アルファでありオメガである」とあります。アルファとはギリシャ語アルファベットの最初の文字であり、オメガとは最後の文字です。日本語でいえば「わたしはアであり、ンである」ということになります。つまりキリストは、はじめから終わりまでいらっしゃる永遠のお方なのだということです。私たちは被造物はすべて時間のあるときに生まれ、また去ってゆきますが、キリストは永遠から永遠にいます神です。イエス様が人としてこの世に生まれたのは、わずか2000年ほど前のことですが、イエス様はこの世界が存在する前から父とともに御霊にある交わりのうちに生きていらっしゃる神です。
 そして、キリストは万物を創造なさいました。ヨハネ福音書の冒頭には、永遠のことばであるキリストについて、「造られたもので、この方によらずにできたものはひとつもない。」とあります。見えるもの、見えないもの、ありとあらゆるものをイエス・キリストは無から創造なさいました。そのお方が、湖や嵐をひとことで静めることがおできになるのは当然のことでした。イエス様は永遠の神であられ、かつ、万物の創造主でいらっしゃると聖書はこのように教えているのです。

 そして、このキリストが「人となって私たちの間に住まわれた。」とヨハネは続けています。神様は、ご自分の御子キリストの姿に似たものとして私たち人間を造られました。私たち人間は、もともとキリストに似せて造られた存在です。ところが、本来、ご自分に似た者として造った人間が、神様にそむいて惨めな者になってしまったので、イエス・キリスト様は私たちを救い、私たちの本来の姿に回復するために、人間としてこの世に来てくださったのでした。ガラテヤ4:4に次のようにあります。
「 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。」
キリストは、罪に打ちひしがれている私たちをごらんになって、ご自分は安全なところにいらして高見の見物をしているお方ではありませんでした。この危険で罪に満ちたこの世に、しかも、人となって来てくださったのです。
エス様のご生涯を見れば見るほど、イエス様こそまことの人です。私たちは、罪に汚れて自己中心になっているために、まことの人間ではありません。聖書には『喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい』とありますが、私たちはえてして喜ぶ者とねたんでしまったり、泣く者を見て冷淡にさばいたりしてしまうような心のゆがんだ者です。
エス様は恐れるべき父なる神を真におそれ、したがい通したお方でした。十字架の死にまでも従われたまことの人でした。ところが私たちは、恐れるべき神を恐れないで人の顔色や世間体やこの世の嵐を恐れてしまいます。まことの人間の姿から落ちてしまっているのです。・・・イエス様だけが、まことの人なのです。
エス様は、まことの人として、私たち人間の罪ののろいをあの十字架で背負って死んでくださったのでした。そうして、人類の初穂として、死者の中からよみがえってくださいました。あれはまことの人の姿です。

結び 主イエスの足跡にしたがう

私たちキリストを信じる者たちも、イエス様の足跡にしたがって行くとき、イエス様に似た者として回復していただけます。これを聖化といいます。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)イエス様は人、まことの人となってこられましたから、イエス様のご生涯を見るとき、私たちは完全な人の生涯を見ます。私たちは、その御足のあとにしたがって行きたい。

 それは、一つはイエス様がそうされたように父なる神様を徹底的におそれ、信頼し、従う生き方。もう一つは、自分は安全圏にいて高みの見物をしているような生き方ではなくて、さまざまな困難な中にある方たちのところに寄り添って生きる生き方ということではないでしょうか。
最近、書評を依頼されて『キリスト者として原発をどう考えるか』という本を読みました。内藤新吾先生というルーテル教会の牧師の書かれたものです。内藤先生とは六年前に知り合いました。先生は長年浜岡原発差し止めのために祈り行動していらした方です。
その発端は名古屋の労働者の寄せ場のある笹島(東京でいえば山谷)の年老いて健康を害した労働者から話を聞いたことだったそうです。その人は原発被爆環境で働いてきたのでした。原発メンテナンスは下請けの下請けの下請けの下請け・・・第10次下請けまであって、もっとも危険な場所で作業する労働者は最下層の労働者です。彼らが作業する場所では、線量計がすぐに規定の数字に達してしまうので、そして達してしまうと仕事から追い出されるので、線量計をはずして作業するしかない場所なのです。・・・原発という発電システムは、このように弱い立場にある人たちの生命を食い物にしなければ成り立たないものなのだということを内藤先生は知るようになりました。それは、ウラン採掘の現場でも同じように起こっていることであり、原発の立地においても、同じです。
これを発端として、内藤先生は原発のことを調べるようになりました。国はいつでも核兵器を持ちうるために原発を国策としてきたこと。原発には政界官界財界学界の利権がからみマスコミ界にも原発マネーが流れているために、国民は真実の情報から遮断されてきたこと。原発から出る放射能のゴミは処理しようがなく10万年単位で保管しなければならないこと。そして、日本の原発の多くが地震が来ると破綻し、この国を滅ぼしてしまうような場所に立地しているという事実など。(・・・本書には原発について知るべきことがコンパクトにまとめられています。)
そうして、この世の闇の力、不正と戦って来られました。しかし、内藤先生の原点はあの笹島の被爆労働者の苦しみに寄り添うところにあります。本書末尾にこうあります。「主イエスは悪のくびきを折り、虐げられた者を解放された。また貧しき者とともに生き、人々の痛みを負い、病を癒された。主は私たちを弟子として、この世に遣わされる。私たちは決して主と同じようにはできないが、主に愛され命をもって贖われた感謝から、出来る限り主の願いに応える者でありたい。」
これこそ、私たちのキリストの足跡にならう歩みです。