苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

15 試練への備え

 アブラハムと妻サラの一粒種イサクはすくすくと成長し、乳離れの日がやって来た。日本でも昔は五歳くらいまでは母乳を与える習慣があった。おそらくイサクも、その程度の年齢には達していたのではなかろうか。棟梁の跡取り息子の乳離れゆえ、一族挙げての大宴会となった。老若男女ごちそうにあずかり歌い踊る。アブラハムとサラは満足げに、この宴を楽しんでいた。
一族の者たちは次々にイサクとその両親にあいさつにやってきて、「まことにおめでとうございます。」とそれぞれ祝いのことばを陳べてゆく。ところが、ハガルがイシュマエルをともなって挨拶に来ると、イシュマエルは鋭い視線をイサクに向けたことをサラは見逃さなかった。
 座興として踊りや歌が披露されるなか、イシュマエルも躍り出た。、まだたくましいという体つきではないが、十七歳の青年らしくしなやかな動きで樫の棒を槍に見立てた舞をした。そのとき、小さなイサクの鼻の先に樫の棒を鋭く突き出した瞬間、座は静まってしまった。そこにひやりとした殺意を感じ取ったのは、サラとアブラハムだけではなかった。
 焚き火も尽きて宴が終わると、人々はそれぞれ自分のテントに戻っていく。静かになったとき、サラは夫アブラハムに迫った。
「はしためのハガルを、あの子といっしょに追い出してください。はしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」
 アブラハムにとってはイシュマエルも血を分けたわが子である。十数年間は、あの子が跡取りになるものだとばかり思って育ててきた。情も移っている。アブラハムは非常に悩んだ。二人を荒野に追放したなら、どのようにして生きていくことができるだろう。だが、確かにサラがいうとおり、イシュマエルの母譲りの激しい気性とイサクへの敵意は遅かれ早かれこの一族の火種となるだろうことは、アブラハムにとっても明らかだった。どうしたものか・・・ひとり悩むアブラハムの鼓膜をあの声が打った。
 「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」
 主の御声だった。アブラハムの心にいいようのない平安が訪れた。かつてのアブラハムであれば、それでもなお悩んだであろう。しかし、このときアブラハムに迷いはなかった。彼はただちに決断する。翌朝早くまだ暗いうちにアブラハムは、ハガルとイシュマエルを宿営から追放したと聖書に記録されている。しかも、彼らに持たせたのはただパンと水の皮袋のみだった。アブラハムのしもべたちは、「イサク様と一族の安泰のためとはいえ、ご主人さまも非情なことをなさるなあ。」とうわさするだろう。ハガルもイシュマエルもしばらくはアブラハムをうらむだろう。
 だが、アブラハムの心に迷いはなかった。彼の判断は人間的感情も理屈も超えていた。故郷を旅立って以来30年間のうちに神から受けたさまざまな取り扱いによって、アブラハムのうちに一つの揺るがない確信が与えられていたからである。それは、主の約束は信じること、そして主の命令には従うこと、それだけが祝福の道だという確信である。かつて、主の約束を信じきれずにエジプトに逃れて失態を犯したことがあった。また、主の約束を信じきれずにこの世の知恵にしたがってハガルに借り腹をして家庭の中に不和を持ち込み苦々しい経験もした。そういう過ちにもかかわらず、主のお約束は真実だった。
「主がおっしゃることは、主が責任を持って成し遂げてくださる。イシュマエルを一つの国民としてくださると主が約束された以上、私が何を心配する必要があろう。サラのいうとおり、ハガルとイシュマエルを家から出そう。」
 このようにアブラハムは決めた。だが、実は、この出来事が最後の信仰の試練への備えであることについては、まだアブラハムは知るよしもなかった。