「二十世紀も末のぎりぎりの時期になって、IT革命と呼ばれるような情報技術の途方もない発達が見られ、それが他の諸要因と結びついて国民国家の存在を根底から揺るがしはじめている。いわゆる経済のグローバル化が進展し、ますます経済活動の大きな部分が国境を意に介することなく繰り広げられている。国境を越えての企業同士の合同や提携はまったく日常茶飯事となり、金融取引も国民国家の国境を無視して、文字通りグローバルな規模で昼夜を問わず展開されている。つまりは、近代を通じて当然視されてきた国家と経済との密接不可分な関係が、急速に弱まってきている。
こうなってくると、近代主権国家が当然のこととして行使してきた徴税権の行使さえ難しくなり、したがって、国家が富の再分配の権限を握って、国家伊単位の社会政策や福祉政策を展開することも、困難になってゆかざるを得ない。」(野田宣雄『二十一世紀をどう生きるか』2000年)
フランス革命以来、国民国家というものが成立して、わが国も百年ほど遅れて明治維新以後、国民国家を作り上げてきた。国民国家は私たちの物の考え方、社会の考え方の前提になっている。しかし、今まさにその前提が、急速に緩み、崩壊に向かいつつある。これは帝国の時代の再来であると野田宣雄氏は言っている。帝国とは、その領域内に諸民族・諸国語を抱え込んでいる統合体であって、古代ローマ帝国内の諸州、EUあるいは今取りざたされているTPPにおけるような諸国のような状態である。そういう帝国では、結局すべての富は強国に吸い上げられて弱小の諸州・諸国は疲弊する。
企業についていえば、「プロジェクトX」に出てきたような、戦後、日本復興を使命とした「日の丸企業」などといった時代はとうに過ぎ去って、今や企業は多国籍化していて祖国をもたない。祖国(自国)がないから、多国籍企業は自国民の雇用や自国民の福利に対してなんの責任感も持ってはいない。企業にとっての至高の価値は企業の儲けである。多国籍企業は、あっちの国のほうが税金も労働力も安いとわかれば、社員を解雇して日本国内の工場を閉鎖して、「あっちの国」に工場を移転してしまう。こんなわけで、多国籍企業の出現によって国家は税収を確保して運営することも困難になる。
今、野田政権は経団連会長米倉弘昌氏に鼻面を引きずりまわされて、原発再稼動・TPP参加の方向へと動いている。野田政権は、米倉氏から、法人税を上げると海外に企業は逃げ出すぞ、原発をやめて電力料を上げるなら工場が外国に逃げ出すぞと脅されて、原発再稼動を決め、TPP参加の方向に動いている。では、経団連が日本国や国民に対する忠誠心をもっているかといえば、まことに怪しい。米倉氏がなぜああまで強力にTPPを推進するかといえば、氏が会長を務める住友化学が多国籍企業モンサントとがっちり手を握って日本の農産物市場を支配して大もうけをするためである。多国籍企業にとって、国民が職業を失って路頭に迷おうが、遺伝子組み換え野菜で日本のふるさとの生態系が破壊されようが、放射能で国土が汚染されようが、医療への市場原理の導入で国民健康保険制度が崩壊して庶民が医療を受けられないようになろうが、知ったことではない。祖国を持たない多国籍企業の関心は、自社の利益のみである。多国籍企業は富に仕えているのである。
このようなわけで、今は、近代国民国家の崩壊という歴史の節目にある。従来、「国民国家」という倫理的枠組みがなくなってしまったので、マモン(富神)が暴君のようにふるまっている。新しい時代の倫理の枠はこれからどのように見出されていきうるのだろうか。