苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

なぜ成長し続けなければならないのか?


(今朝、小海では少し雪が積もりました。)


 ニュースなど見ると「経済は常に右肩上がりに成長していなければならない」という常識について、疑いを抱く人は少ないようである。だが、それは土台無理な話である。なぜなら、地球が有限であるから。かつて人間の経済活動に対して地球が有限であるという事実を認識していなかった時代には「経済は常に成長しつづけるべきだ」という命題には、妥当性があったかもしれない。しかし、地球の有限性が認識された現代にあって、なおかつ経済は常に右肩上がりであるべきだという主張をするとすれば、それは愚者の主張である。それでも、政治家も大学教授も評論家も、あたりまえのように経済は成長し続けなければならぬと言っている。
 では、なぜ経済は常に追い立てられるように成長しなければならないと言われているのだろうか。それは企業も国も借金をして運営しており、かつ、借金には利子がつくからである。1パーセントの利子なら、1億円借りたら、期日までに1億100万円返さねばならない。期日までにそれ以上に儲けなければ倒れてしまう。だから、成長しなければならない。個々の会社が自転車操業しているだけではなく、経済全体が自転車操業状態なので、成長しないと倒れてしまうのである。
 近代経済の根本問題は利子のつくお金というシステムであるという事実を指摘したのは、シルビオ・ゲゼルそしてミヒャエル・エンデであった。資本主義だけでなく、共産主義もこの罠からのがれられなかった。利子のつくお金というシステムを改めなければ、有限な地球がもたないことは、いまや、小学生にもあきらかである。
 お金を貸したら利子を取るのはあたりまえではないかと現代人はいうだろう。だが、それは実は当たり前のことではない。中世ヨーロッパ社会では利子を取ることは許されていなかった。それは聖書に「わたしの民のひとりで、あなたのところにいる貧しい者に金を貸すのなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を取ってはならない。」(出エジプト22:25)と利子を取ることを禁じられているからである。これは律法の民ユダヤ人にとっても同じであった。だから、キリスト教徒同士、ユダヤ人同士は金銭の貸し借りをすることはあっても、利子はとってはならないとされた。というわけで、キリスト教徒は金持ちのユダヤ人から利子のつくカネを借りることになり、ユダヤ人たちは「ベニスの商人」の高利貸しシャイロックのように戯画化されるようにもなった。
 利子のつくお金というシステムを正当化した神学者カルヴァンであった。なぜだろうか。詳細は専門家からうかがいたいものだが、その時代のことを考えればあるていど推測はできる。中世という時代、ヨーロッパは北アフリカも地中海もイスラムに支配され、人々はあの狭い地域に押し込められて、古代ローマ帝国の栄光ははるかな夢として消え去ってしまっていた。土地が基本的にやせており、気候的にも恵まれず、農業収入も少なく、その上、ペストが幾度もヨーロッパ人たちを脅かした。経済の成長など望むべくもない時代であったから、十年一日百年一日というふうに停滞していた。しかし、中世後期から近世の絶対王政成立へと向かう時代、ヨーロッパはその力を世界に拡大し、経済規模が年々成長し始めた。そういう時代、カルヴァンが適正な利子を正当化した理屈はわからなくはない。人からお金を借りて、それを元手として事業を展開して大きな収入を得る以上、その対価として適正な利子を求めることは、困窮しているからお金を借りるというのとはちがう意味がある時代となったのである。物価が年々上昇するという時代にあっては、物価の上昇率にしたがった利子分を返済に足すということは、利子を取っていないこととみなしうる時代になったともいえる。むしろカルヴァンの意図としては、時代の波に乗って不当な利子をかけて儲けていた金貸し業を規制して、適正な利子に制限することにあったということを読んだことがある。
 だが、今、私たちはもう一度聖書そのものに立ち返って、考え直すべきときが来ている。とても単純なことである。地球には限界があって、もはや人間の無限の経済成長を許容することができなくなっているという事実を受け入れて、それにふさわしい生き方、経済のありかたを構築しなおさねばならないということである。そして、その鍵は、利子がつくというお金のシステムを変革することである。いや世界には、すでにこうした課題に具体的に取り組んで実を挙げている人々もいるのである。