苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

自衛隊であればこそ・・・・小林よしのり『国防論』、デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』

(小海駅のホームから、教会のこげ茶色のとんがり屋根が見えます。)

 乗り継ぎの大宮駅の本屋で、小林よしのり『国防論』を見つけた。本書において、小林は今回の地震津波による東北の被災地にあって、自衛隊がよい働きをしたことを賞賛している。そして、警察でも消防でもなく、自衛隊が被災地でそうしたよい働きができた理由として、第一に自衛隊が食料をはじめとするもろもろの生活の必要のいっさいを自前で全て完結する軍隊組織であることを挙げ、第二に、自衛隊員たちが(ごく一部の例外を除いて)被災者たちに対する思いやりと任務に対する責任感に満ちた青年たちとして訓練されていることを挙げている。そして特にこの自衛隊の被災者へのやさしさと責任感について、こんな軍隊が世界にあるだろうかと賞賛している。
 しかし、小林は自衛隊は災害救助隊ではなく、その本質は外敵と戦う軍隊であるということを忘れてはならないと釘を刺して強調する。そして、これは実に注目に値することであるが、小林は「軍隊が守るものは国体である。」「天皇さえいらっしゃれば、日本はまだある。日本の軍隊が守るべきは『国体』である。」と真正面から日本軍の本質を述べている。昭和天皇が敗色があれほど濃くなった戦争末期にポツダム受諾を躊躇して沖縄、広島、長崎、そしてシベリアの犠牲を出してしまったのは、ヒロヒト天皇個人の命ほしさという動機ではなく、国体が護持されるかどうかをなによりも考えたからであるという。筆者は、小林の主張は正確であると思う。
 軍隊について多くの人はロマンチックな誤解をしており、映画などでも「愛する者を守るために俺は戦う」などというけれども、軍隊の行動目的というものは、個々の国民を守ることではなく、国体を守ることなのである。だから国体を守るために有益であれば、もちろん軍隊は国民を守るために行動するが、逆に国体を守るために必要な場合には軍隊は自国民にも銃を向ける組織なのである。それは日本だけの現象ではなく、歴史を振り返れば諸外国でも同じである。
 現代の軍隊というものは、国体を守るためには勇んで殺人や破壊活動ができるように、特殊な洗脳を施された人々の組織である。米国ウェストポイント陸軍士官学校教授デーヴ・グロスマンが『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)に述べるところによると、第二次大戦中「敵との遭遇戦に際して、火線に並ぶ兵士100人のうち、平均してわずか15人から20人しか自分の武器を使っていなかった」ことが調査の結果わかったという。15パーセントから20パーセントの兵士しか敵に向かって発砲せず、80〜85パーセントの兵士たちは空や地面に向けて撃っていたのである。彼らはもっとも危険な任務にもあえて就くような勇敢な兵士だが、とにかく敵に向かっては発砲しなかったという。それで、「平均的かつ健全な者でも、同胞たる人間を殺すことに対して、ふだんは気づかないながら内面にはやはり抵抗感を抱えているのである。その抵抗感のゆえに、義務を免れる道さえあれば、なんとか敵の生命を奪うのを避けようとする。いざという瞬間に、兵士は良心的兵役拒否者となるのである。」と結論する。さらに調べれば、殺人に適性がある兵士はどの国によらずわずか2パーセント、つまり、50人に1人しかいないことがわかったという。98パーセントの人間には殺人に適性がないのである。殺人に適性がある人というのは妙な言い方だが、それはグロスマンに言わせれば羊の群れのなかの勇敢な牧羊犬のような存在で、彼らは戦って敵の生命を奪っても心的外傷を受けないという。
 米国陸軍は、これでは非効率的だと考えて訓練のしかたを特殊な洗脳的プログラムに変えた。人を殺すことについて抵抗感・良心の呵責を感じない兵士を養成してベトナム戦争に送り込んで、米陸軍は15パーセントの敵への発砲率を90パーセントに引き上げることに成功した。だが、その結果どういうことになったか。そもそも殺人適性のない大多数の人々(羊たち)が人殺しをしたために、彼らは深い心的外傷を抱えてしまったのである。太平洋戦争後には帰還兵は社会問題にならなかったが、ベトナム以後、米軍の帰還兵が社会問題となっているのには、このような背景がある。
 現在、自衛隊がそういう洗脳訓練を隊員にほどこしているという話は聞かない。逆に、ある自衛隊機の墜落事故にかんして航空自衛隊幹部が言ったことばが記憶に残っている。彼は言った、「自衛隊は軍隊ではなく、あくまでも自衛隊としての訓練をしているのです。」訓練中の戦闘機が故障で墜落しそうな状況のとき、その自衛隊パイロットは、墜落地点が住宅地域となることを避けるために、ぎりぎりまで脱出のタイミングを伸ばし、その結果自分の生命を犠牲にしたのだった。もし小林よしのりがいうように自衛隊を軍隊として整えたいならば、殺人に良心の呵責は感じないように洗脳をしなければならない。しかし、そのとき自衛隊は、もはや小林が賞賛するような優しさに満ちて責任感にあふれる青年たちではなくなってしまうだろう。人命救助を目的とする組織と、人命を奪うことを目的とする組織は、いったい両立しうるのだろうか。