苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

取り返しつかないことをしても


「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました。」第二コリント五章十七節

 「なんということをしてしまったんだろう。なんという罪を犯してしまったんだろう。もう取り返しがつかない。」私たちには人生を振り返ると、そんなふうに思うことがあるかもしれません。私自身振り返るとそういうことがあります。でも、時は過去から未来へと流れる川であり、私たちは時という川に棹差す舟人ですから後戻りすることはできません。
 「順境には喜び、逆境には反省せよ。」と聖書にもありますように反省はたいせつなことです。しかし、後悔はただ人を絶望に陥れるだけです。主イエスが最期の一週間都エルサレムに入ったとき、十二弟子の一人イスカリオテ・ユダという男は、主イエスを裏切って敵のもとに走り銀貨三十枚を受け取りました。けれども実際に主イエスを敵に売り渡すと、ユダは「私は罪を犯した。罪の無い人の血を売ったりして。」と後悔して、絶望のうちに自殺してしまいました。
 他方、十二弟子の筆頭格にペテロという直情径行な男がいました。主イエスが十字架にかかられる前夜、まもなくご自分が逮捕され十字架にかけられることを予告すると、ペテロは「たとえ全部の者があなたを裏切っても、私は決して裏切りません。」と大見得を切ります。
 果たしてその数時間後、オリーブ茂る園で深夜主イエスは逮捕されてしまいます。ペテロは夜陰にまぎれて縄をかけられたイエスの後について、裁判の庭に入ります。かがり火に集まる野次馬の中にペテロは身を隠したつもりでした。ところが、火の明かりがペテロの顔を人々の前に露わにし、人々は口々に言い立てました。「あなたイエスの弟子でしょう。」「おまえはあいつの弟子だろう。」「確かに見たぞ、その顔。」と。すると、ペテロは震え上がって「おれはイエスなんぞ知らねえ。」と三度も呪いをかけてイエスを否定したのです。「コケコッコー!」あざけるように、あるいは「ペテロ、有罪!」と判決を下すかのようにニワトリが鳴きました。主イエスは振り返ってペテロをじっと見つめます。とたんに、ペテロはその場を逃げ出し、おいおい泣きながら主を呼び求め、罪を悔い改めたのでした。
 しかし、後に、復活された主イエスはペテロを赦し、ペテロをキリスト教会の指導者としてお立てになります。ペテロの回復は、主の無限の愛と真実のあかしとなりました。
 神に心を閉ざし神に背を向けたまま後悔しても、そこには絶望と死しかありません。しかし、神に向かって悔い改めるならば、そこに新しい人生が始まります。ペテロの裏切りという人生の汚点は消えませんが、その汚点さえも主イエスの愛と力の証拠として用いられているではありませんか。
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました。」
 キリストを離れて後悔しつづけるのはやめて「キリストのうちに」いらっしゃい。そこに新しい人生が始まります。キリストのうちにとどまっているなら過去の憎しみも後悔も超えて、新しい人生が始まるのです。
(通信小海97号2001年11月号に加筆)