苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

お互い様を超えて



モリアザミをいただいたので、活けてみました。このあたりでは、この花の根を山ごぼうと呼んで食用にします。香りが高くでとてもおいしいものです。ヤマゴボウという植物はまったく別のもので、その根は有毒ですから、注意。) 


 「ペイ・フォワード」という映画を見たことがある。ある少年が通っている学校で、「世界を変える方法を考えてきなさい」という宿題が出された。主人公の少年は一生懸命考えて、「自分のまわりの三人のひとに、なにか思い切った親切をしよう。そして、その一人一人に、もしその親切がうれしかったら、その感謝を、ぼく以外の三人になにか思い切った親切をすることで表わしてくださいとお願いしよう。」というアイデアを思いついた。主人公の少年は、これを実行してみた。

 誤解され失敗したり落胆したりしながらも、この親切の輪はだんだんと広がっていった。
 「おたがいさま」ということばがある。善をはかってくれた人にお礼をするのは人間としてあたりまえのこと、たいせつなことである。けれども、それだけでは親切は二人の「おたがい」のあいだで完結してしまう。しかも、儀礼化すると「お返し」は、えてして心という中身が失われがちである。「こんなにお返しに気を遣わなければならないくらいなら、せっかく親切にしてくださった人には申し訳ないけれども、何もいただかないほうが気楽だった。」ということにもなったりすることもなくはないだろう。
 もし私たちが「私があなたにしてさしあげる親切に対しては、ほかの人にお返ししてください」と勇気をもって言ってみればどうだろう。ここにすばらしいことが起こる。

 たとえば、何かの祝いごとに集まる人々みなが、お祝いを差し上げるとき、「『半返し』は要りません。あなたの必要のために使ってください。でも、もし半返しの余裕があるならば、それをほんとうに必要としている働きや施設に寄付してください」と申し添える。そうしたら、多くの家の押入れが実用性のない引き出物でいっぱいになることがなくなり、本当に困った人々が潤って社会はもっとよくなる。
 もう二十年も前のこと、私の父が天に帰ったとき、父が現役だったこともあって集まった香典が相当額に上った。それをある特別な働きをしている病院に事情説明をそえて寄付し、その旨を会葬の感謝状に記して発送したことがある。会葬してくださった方たちと後日お話をしたら、「あのような有用な用い方をしてくださって、とてもうれしかったです。」といわれたことがある。心寛い友人を持った亡き父の幸いを思ったことである。

「返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何のよいところがあるでしょう。」ルカ六:三十四
(通信小海109号 2002年11月)