苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

豚に真珠  (有名な聖書のことば2)



 今朝の秋の空

「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」(マタイ七:六)


 「豚に真珠」といえば、「猫に小判」と同じように、その価値のわからない者に、価値あるものを与えるなということわざです。これが、イエス様のことばだというのは、読者にとって意外なことではないでしょうか。筆者自身、聖書を最初に読んだとき、イエス様が「豚の前に真珠を投げてはいけない」と教えたところを読んで、びっくりした記憶があります。「へー、『豚に真珠』ってキリストのことばだったのか。結構、イエス様はきついこと言うもんだなあ。」イエス様のことばはいつもやさしくて、上品なことばだというイメージを持っていたので、そんなふうに驚いたのでしょう。イエス様はごく普通の庶民の家に育って、学者だけでなく、だれにでもわかることばで、大胆率直に語られたのです。
 豚の前に犬の説明です。「聖なるものを犬に与えてはいけません。」聖なるものというのは、たとえば神殿でお供え物にしてあったパンです。その下ろしてきたものは、祭司とその子らが、神殿の奥庭で食べることと定められていました。それも儀式の一部でしたから、そのパンを犬にくれてやるのは、とんでもない冒涜でした。
 「豚に真珠」の豚は今のような飼いならされた豚ではなく、気の荒い昔の野豚です。そんな野豚の前に真珠を投げたら、豆だと思ってパクパク食いつくでしょうが、豆でないとわかったらだまされたと、怒って振り返ってあの牙であなたを引き裂くでしょう、というわけです。
 イエス様は何を「聖なるもの」「真珠」にたとえているのでしょうか。旧約聖書箴言(しんげん)には次のようなことばがあります。
「 あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。」(九:八)
「 訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。」(十五:三十二)
「 知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、金の耳輪、黄金の飾りのようだ。」(二十五:十二)
 こうしてみると、真珠というのは、どうやら私たちの耳に痛い叱責のことばのようです。親からにせよ、ときには子どもからにせよ、あるいは友人や先輩や後輩からにせよ、私たちはときどき苦言を呈せられることがあります。おだてられるのは気持ちいいものですが、責められるとつまらぬ言い訳したり、逆に腹を立てたりしてしまうのが私たちです。そのとき、私たちは自分が豚や犬のようなものであることを暴露しているのですね。そして、格別に聖なるものといえば、もちろん福音です。
「キリスト・イエスは罪びとを救うために、この世に来られた。これはそのまま受け入れるに値することばです。」
(通信小海2011年9月号 215号より)