苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

造り主の知恵、人の知恵

 保育園の先生が、キアゲハの幼虫をくださった。黄緑に黒いしま模様、そこにオレンジ色の点点がある。さわると、ヒエッ!マシュマロみたいにプニョプニョしている。ニンジンの葉っぱを一日中もりもり食べて、みるみるうちに大きくなったのだが、昨日の朝は、体を曲げてじっとしていた。「ははあ、さては『はらぺこ青虫』みたいに、食い過ぎておなかをこわしたかな。」と見ていると、黒いしまもようが薄れていき、頭がツンととがってきて、サナギになってしまった。どこがどうなって、青虫がサナギになったのかもう思い出せない。手品である。もうしばらくすれば、あの美しいキアゲハになって優雅に飛び立つのだろう。
 創造主の知恵はなんと不思議なものだろう。こんな奇跡がこの季節には、あちこちのニンジン畑でくりかえされているのである。「神の目にみえない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造されたときからこのかた、被造物によって知られはっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ書一:二○)
 最近、米国科学アカデミーの報告にかんする「遺伝子操作動物の危険性」という記事を読んだ。人工の遺伝子操作を受けた生物が逃げ出して野生で繁殖し、自生の植物や動物をおびやかすという。特に、それが自然の動物よりも生殖能力がすぐれているように操作されている場合、自然動物を絶滅させてしまうことになる。人は、目先、早く成長する牛や豚や養殖魚を造ることができれば、巨万の富が手に入るということで、すぐに飛びつくのだろう。が、長い目で見ると地球の生態系をおかしくして、人間が生きるための環境そのものを破壊してしまう危険がある。
バイオテクノロジーに手をつけた人間は生命の仕組みまでコントロールできる知識を得たと思い上がっているのだが、所詮、人の知恵は有限である。目先のものしか見えないし、欲がからめばなおのこと見るべきものが見えなくなる。すべてを見とおしておられる創造主を畏れることが今こそほんとうに必要ではなかろうか。生物の一つ一つに計画をもってお造りになった創造主を愛することが必要ではなかろうか。

「主を恐れることは知識の初めである。
 愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」
           箴言1:7

(通信小海107号 2002年9月より)




ヤマユリ