苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

愛と知識

ピリピ1:9−11
2011年7月10日 小海主日礼拝


 開花間近のキキョウ


 パウロはピリピ教会の兄弟姉妹のために祈ることをもって、その手紙の内容に入っていきます。祈りの課題は二つあります。
 第一の内容は「あなた方の愛が豊かになりますように。」
 第二の内容は「神の誉れと御栄えがあらわされますように」です。
「 わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、 それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。」ピリピ1:9−11

1.愛がいよいよ豊かに

(1)愛が豊かにされるには深い知識が必要
 先週学びましたように、ピリピ教会はパウロの伝道をこのときまでずっと祈りとささげものをもって、また、人を送ることをもって支えてきた愛の実践豊かな教会でした。その愛がますます豊かにされるようにと祈っているのです。パウロは、彼らの愛がどのようにして豊かにされると言っているのでしょうか。「真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かにされますように」です。愛が豊かになるには、真の知識と識別力が必要だというのです。
 ここでパウロが「真の知識」という言葉は「エピグノーシス」といいます。「知識」とはふつうグノーシスなのですが、それをあえて「真の知識」といったのは、当時グノーシス主義という異端運動と区別するためだったと思われます。この異端運動はヘレニズム世界の異教に聖書の用語をあてはめることによって作られた混合宗教でした。そこにもキリストは出てきますが、それは人としてこられたのではない霊だけのキリストでした。彼らはこの霊だけのキリストから「知識グノーシス」を得て、その知識グノーシスによって悟りを得るという偽りの教えをしていました。それに対してパウロはエピグノーシス「真の知識」が必要だといったのでした。
 というわけで、パウロがここで愛を真の知識によって豊かにするようにといっているのは、グノーシス主義の偽りに惑わされず、正しい教理によって神と隣人への愛において成長しなさいということです。
ピリピ教会はもともと愛の行いにおいてすぐれた教会でした。ピリピ教会はその始まりが、学者のような人たちではなく、紫布の商人ルデヤというやり手の女性と、ローマの兵士という実践的な人たちだったという背景があるからかもしれません。こむずかしい神学的・哲学的な理屈をこねているより、愛の行いが大事だという姿勢をピリピ教会は持っていました。しかし、正しい教理を軽んじていると、異端の教えの罠に陥ってしまう危険があるので、パウロはそのことを警戒して、神への愛と隣人愛が豊かにされるには、真の教理も必要なのだと言いたかったのです。
愛というのは、感情であり、行動であるというのは本当です。でも、もしその愛が真理に裏打ちされていない主観的なものならば危険です。「愛は不正を喜ばずに真理を喜びます」とあるでしょう。「神を愛している」と言って「そうだ。神様を実感をもって礼拝するために木で偶像を作ろう」と一生懸命に神様の偶像を造ったら、かえって神様の怒りを買うでしょう。また男女の愛でも、真理をわきまえず情愛がおもむくままに行動したならば、相手も自分も不幸にしてしまいます。親子の間でも、なんでも欲しい物を買ってやることが愛だと思って行動すれば、子どもを不幸にしてしまいます。真理に裏打ちされない愛は有害なものです。真理に裏打ちされて、愛は豊かにされます。

(2)知識の目的は愛が豊かにされること
 このように真の知識はとても大切です。しかし、ここで、「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かにな」ることで注目すべきもうひとつのことは、愛が知識の目的なのだということです。言い換えると、知識はそれ自体を目的とするのではなくて、愛が豊かにされるための手段なのだということです。
 イエス様は、人間の主な目的は、「心を尽くし、力を尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ」という戒めと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということなのだと教えてくださいました。神を愛することと、隣人を愛することが人間の主な目的なのですから、知識もまた、愛という目的を達成するための手段なのです。
 ところが、どうも知識というのは、それ自体が目的とされてしまうことが往々にしてあるようです。パウロは別の箇所で「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」と警告しています。知識というのは、人を傲慢にさせることが多いのです。何か知識を持っていると、それだけで自分が偉くなったような錯覚に陥ることがあります。
知識は本来人を賢くするはずのものなのですが、かえって愚かにしてしまうことがあります。英語で大学1年生のことをfreshman新人といいます。大学二年生はsophomoreといいます。ソフというのは、ソフィア知恵ということばですが、モアとは馬鹿という意味です。つまり、「かしこばか」。1年間勉強をしてきて、「ああ、僕も学問に通じる賢い人間になったわい。」と思い上がっているからからです。自分が賢いと思っているとき私たちは愚か者になっているのです。
ですから、私たちは人に諭されて即座に「そんなことわかってるよ」と反発するとすれば、そのときが、一番何もわかっていないときです。私たちは人に諭されたとき、「ほんとうは自分はわかっていないのかもしれない」と反省する心の余裕がほしいものです。
 本当にわかっているとはどういうことか。それは、知識がその目的である愛と結びつき、生き方において愛の実を結んでいることです。どんなに知識があったとしても、その知識が愛の行いに結びついていないならば、有害無益です。アダムが善悪の知識の木の実を食べてしまって以来、人間において、知識は愛という目的を見失って、知識それ自体を目的とし傲慢に膨れ上がる傾向があります。学生時代に江崎玲於奈さんというノーベル賞学者の講演を聴いたことがあります。講演のあと、一人の学生が立ち上がって質問したのです。「先生のお話を聞いていると、人の知的探求心というのは抑えることができないものであるとのことです。けれども、研究者が、自分のしている研究の結果が人類を不幸にする、もしかすると人類を滅ぼしてしまうものであるということがわかってきた時にはどうすればよいのでしょうか。」
 すると江崎玲於奈さんは言いました。「核兵器などまさにそういうことでしょう。しかし、科学者はその探求をやめることはできません。研究結果を良いことに用いるのか、それとも悪いことに用いるのかは政治の仕事でしょう。科学にはそのように悪魔的な面があります。」と。はっきり言ってしまえば、江崎さんは科学者には倫理はいらないといったのです。私は、その日憤りを覚えながら帰宅した記憶があります。湯川秀樹アインシュタインは、広島、長崎の核戦争への深い反省から、科学者は自分の研究が人類に有害なものだということに気づいたら、その研究を断念すべきだという立場をすでに打ち立ていたのです。アインシュタインは、自分の発見があのヒロシマナガサキの悲劇をもたらしたことに慙愧の念をこめて、「もし私にもう一度人生をやり直す機会が与えられたなら、私は水道の配管工になりたい。」とまで言っているのです。
 たしかに知識は必要です。しかし知識はそれ自体を目的としてはなりません。知識は愛を豊かにするための手段なのです。目的と手段を取り違えないことが大事です。

2.神の御栄えと誉れが

(1)キリストの日を目指して聖化を
 パウロのもう一つの祈りの課題は「神の御栄えと誉れが表されますように」ということです。神様に栄光をお返しできますようにというのです。10節後半と11節です。
「1:10それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、 1:11イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。」
 パウロの目は「キリストの日」に向けられています。それは、私たちがそれぞれキリストの前に引き出されて審判が行われる日のことです。その日を目指さして、「義の実に満たされて」いくこと、つまりクリスチャンの成長があります。人の評価に一喜一憂するのではなく、キリストの前に出てキリストからなんと言っていただけるかということが肝心なことです。この世の人々の評価の基準は変わってしまいます。また、この世の人々はあなたのうわべしか見ていません。しかし、キリストはあなたのすべてをご存知でいらっしゃいます。このキリストの前に出ることを思って、私たちは義の実を結んでいくように、というのです。
こうしたクリスチャンの成長を聖化といいます。聖化には足し算と引き算があります。「非難されるところがなく」というのは引き算です。恥ずべき事、罪の引き算が聖化の一面です。十戒に記されていることは基本中の基本ですが、キリストの御霊が、みことばによって、私たちのこころの中に、「それをわたしは喜ばない。悔い改めて捨て去りなさい」と示してくださるならば、いいわけをせずに直ちにその罪を告白して捨てることです。これが聖化における引き算です。
 他方、聖化における足し算とは、「キリストによって与えられる義の実に満たされる」ことです。御霊の実といっても同じ事です。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という品性が実ってくることです。さらに要約すれば、とりもなおさず「あなたがたの愛がいよいよ豊かにされますように」ということです。最初のほうでお話したように、イエス様がおっしゃったように、神様が人間にお与えになった最もたいせつな戒めは「全身全霊をもって神様を愛しなさい」ということと、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということだからです。

(2)聖化の目的は、神に栄光をお返しすること
ですが、パウロ祈りは、そこにとどまりません。彼の祈りは究極的には、すべての栄光を神にお返しするところにまで突き抜けてゆきます。「神の御栄えと誉れが現されますように」。
知識は愛が豊かにされるための手段でした。つまり、人が清い真実の愛の人となることが目指されているのです。それは確かにすばらしいことです。しかし、聖化の完成も、それ自体が目的とされてはなりません。讃美歌に「正しくきよくあらまし」という歌があります。私も大好きな讃美歌の一つです。それはもちろんすばらしい心がけです。ですが、正しく清くあること自体が目的となり、自己完成が目的となるとそれはまちがいです。それはたいへん好尚ではありますけれど、やはり自己追求・自己満足の「宗教」にすぎません。それは立派に見えますが、結局どこまで云っても、自分が目的になってしまっています。どこまでも自己にこだわり続け、自己愛から解放されることはできません。
 クリスチャンは、自己実現を目的として生きているのではないのです。私たちの生きる目的は、私が幸せになるとか、私が誰からも尊敬される人格を磨くとか、自己完成ということでもありません。
本当の意味で清められた人、聖化の完成した人というのは、自分がどれほど清められたかなどということを気にしません。その人は、ただ神様・イエス様のすばらしさを賛美するものなのです。