苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

愛と知識、そして・・・

 昨日から東京渋谷区にある事務所に来ている。あちーーーーーー。暑いけれども、汗をびっしょりかくと、サウナに入ったような爽快感がある。しかも、無料。
 昨日の会議はいつになく早く、9時には終わったので、しばし歓談と思ったら、結局ふとんに入ったのは十二時頃になってしまった。ふとんといってもタオルケット一枚である。だが、暗い内に寝苦しくなって目が覚めてしまった。我慢して1時間ほどうとうとしていたが、4時10分には起き出した。聖書を開いて、ピリピ人への手紙を味わった。
 「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。」(1章9-11節)
 ピリピ教会はもともと愛の実践においてすぐれた教会だった。パウロの宣教を背後から祈りとささげものと、さらにパウロが投獄されてからは人を送ってまで、支えてくれた群れである。そういう彼らの愛がいっそう豊かに成長するようにという祈りをもってパウロは祈っている。その愛は、真の知識によって豊かにされる、と。
 愛と知識の関係において、パウロはここに注目すべきことを語っている。知識は愛が豊かにされるための手段であって、それ自体目的ではない。知識の自己目的化という偶像崇拝は、おそらくアダムが善悪の知識の実を食べて以来の問題である。知識によって人は傲慢になり、暴走する。馬の特性は速く走ることであり、魚の特性は上手に泳ぐことであるとすれば、たしかに人が人である特性は知ることであろう。それだけに、人は知識に於いて傲慢になりやすい。けれども、知識は愛が豊かにされるための手段であって、それ自体目的ではない。主イエスは、人にとってもっとも大切な戒めとは何かと問われたとき、それは全身全霊をもって神を愛し、隣人を自分自身のように愛することであると言われた。だとすれば、知ることもまた、愛の手段であるのは当然である。
 だがパウロ祈りは、そこにとどまらない。彼の祈りは「神の御栄えと誉れがほめたたえられますように」と頌栄へと突き抜けていく。人格が陶冶されて、愛の人となっていくことはたしかにすばらしいことである。しかし、それ自体が目的化されるならば、それはどんなに好尚であり美しく見えても、やはり自己追求になってしまう。自己へのこだわりがついてまわっている。私がきよめられ、私が神を愛し、私が・・・、私が・・・というところから解放され、ただ神をほめたたえるというところにまで突き抜けたい。