苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

美しき天然

 横浜に住む30年来の友人からの手紙に、天然ということばについて記されていた。ご説によれば、日本では美しい山河をさすことばとして用いられたのは、もともと「自然」ということばではなく、「天然」ということばであった。かつては日本人は美しき山河の由来である「天」を知っていたのに、今日、自然ということばしか用いられなくなっていることは、いかにも残念であるという。
 驚いた。筆者は、日本人は昔から、超越的な神を知らない世にも珍しい民族なのかと思っていた。「自然」は、読んで字のごとく「おのずからしかり」ということであるから、創造主を要らないとする自律的・無神論的・自然主義的な世界観を表現することばであり、他方、「天然」は、超越者が世界をこのように造り導いているということを示す表現である。少し前の日本人が「天然」ということばを一般に用いていたということは、イエス・キリストはともかくとして創造主に対して目が開かれていたことを示すのだろうか。
 「天然」ということばを聞いて思い出すのは、サーカスやチンドン屋で用いられた「美しき天然」という歌である。歌詞を調べてみて驚いたことに、手紙の主がおっしゃるとおり、この詩人は鳥の声、滝の音、桜、紅葉などのすばらしさを歌いと、それらは神の御手のわざであり、神の匠のわざであると賛美しているのである。
 歌詞をつくった武島羽衣(武島又二郎)は明治五年に生まれた人物。彼がクリスチャンだったかどうかは知らない。ただはっきりしていることは、その内容が「おのずからしかり」であるような無神論的な自然を歌うのではなく、創造主の作品としての「天然」を明確に歌っているということである。讃美歌集に収録されてもおかしくない内容である。それ以上に考えてみなければならないのは、この歌が明治・大正・昭和を通じて、抵抗なく唱歌として日本中の人々に長年にわたって親しまれたという事実である。この事実は、明治・大正・昭和の人々は、創造主である神からの手紙としての天然を読むことができたことを意味するのではなかろうか。
 現代の日本人は、異様なほどに無神論的になってしまい、「神さまがこの世界を造りました」ということばだけで、もう心理的抵抗や反感をおぼえるようになってしまったようである。信者であろうとなかろうと、とりあえず人間であればだれもが知りえることだと聖書が告げる創造主の永遠の力と神性さえも、今日の日本人は知りえなくなっているとは、なんと悲惨なことだろうか。これは戦後の教育のせいなのであろうか?
 「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。」(ローマ書1:20)


          美しき天然
                   武島羽衣 作詞
                   田中穂積 作曲
空にさえずる 鳥の声
峯より落つる 滝の音、
大波小波 とうとうと
響き絶えせぬ 海の音、
聞けや人々 面白き
此の天然の 音楽を
調べ自在に 弾き給う
神の御手の 尊しや


春は桜の あや衣
秋は紅葉の 唐錦
夏は涼しき 月の絹
冬は真白き 雪の布
見よや人々 美しき
この天然の 織物を
手際見事に 織り給う
神のたくみの 尊しや


うす墨ひける 四方の山
くれない匂う 横がすみ
海辺はるかに うち続く
青松白砂の 美しさ
見よや人々 たぐいなき
この天然の うつしえを
筆も及ばず かき給う
神の力の 尊しや


朝に起る 雲の殿
夕ベにかかる 虹の橋。
晴れたる空を 見渡せば
青天井に 似たるかな
仰げ人々 珍らしき
此の天然の 建築を
かく広大に たて給う
神の御業の 尊しや