苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

知のありかた

 現代社会は、専門家を重んじる。専門分化というのは、デカルト以来、近代的知性の特徴である。デカルトは、『方法序説』で、複雑な問題もいくつかに区分して、それぞれの部分を解決して、あとで総合すればかんたんに解けるのだと教えた。たしかに、一人で複雑な数学の問題を解くとき、問題を部分にわけて、それぞれの部分を解決し、それから総合するというのは有効な方法である。
 だが、数学の問題ではなくさらに複雑多岐にわたることがらが対象である場合、それを多くの部分に分けて、それぞれの部分を別々の専門家が担当するようになると、全体が見えにくくなるという問題が生じる。専門家が、自分の担当する部分以外のことは知らなくてよいのだと考えるようになると、すでにものの考え方がおかしくなっている。
 このごろは病院に行っても、自分は肝臓の専門なので肺のことはわかりませんとか、自分は循環器専門なので消化器のことはわかりませんとか言われるのと同じである。からだ全体の中で、それぞれの器官があって機能しているのに、からだ全体のことがわからなくて、自分の担当する臓器だけを治療しようとする。その結果、他の臓器を傷めてしまう。臓器の手術は成功しましたが、患者は死にましたというふうなことが起る。人間は肉体とともに心を備えた存在であるということをまるで意識しない医学者だっている。
 今回の地震の被災地への対策が遅々として進まない理由の一つは、霞ヶ関の縦割り行政があると指摘されている。脱官僚をした知り合いに聞いたのだが、官僚たちの唯一の関心は自分たちの部署にどれだけの権限とカネを引っ張ってくる法律を作ることができるかということだけで、その法律が国民生活にどれほど役に立つか、あるいはかえって迷惑かなどという最も本質的なことについては関心外だという。
 原発のエンジニアが、自分は格納容器の専門ですとか、自分は圧力容器の専門ですとか、自分は配管の専門ですとかいう。自分は専門家ですから、素人の皆さんのようにほかのことは言えません、と胸を張る。大橋という東大教授は、佐賀原発プルサーマル化にあたっての市民に対する説明会で、「工学的に」ということばを連発して、プルサーマルは工学的に問題ないと主張していた。使用済み核燃料が六ヶ所村にどうとかいうことを質問されても、そんなことは原発と関係ないとか、プルトニウム健康被害なんていうことは原発と関係ないとうそぶいていた。すると、怒った会場から「何で関係ないんだ?」と問われた。すると、「何で関係あるんですか!」と怒鳴り返していた。「自分の専門である原子力工学とは関係ない」と言いたかったのだろうが、要するに専門馬鹿である。
 原子力の専門家たちは、地震があると「原子炉(圧力容器)は守られたか」ということを聞き、圧力容器が守られればそれでよいという風に思う習性がある。それで、原発は、原子炉建屋とタービン建屋とその他変圧器など電源関連施設で、耐震基準がA,B,Cとレベル分けがしてある。これはもっともらしいが、愚かなことであることが、福島の事故で立証されてしまった。さほど重要でないと考えられていた非常用電源であるディーゼル発電機を稼動させるための軽油タンクが、津波でもっていかれて、発電不能→冷却不能→炉心メルトダウンにいたったことは、周知のことである。システムというものは、それが精密にできていればいるほど、小さな部分の全体への影響は大きい。 「むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであ」る(1コリント12:22)。
 昨日話題にした浜岡原発の防潮堤も、土木工学の専門家は、素人にはわからない構造計算などをして、精密に設計するのだろう。しかし、どんなに丁寧に設計したとしても、津波が岸辺からはるか5キロメートルも入り込んで、原発を横や裏から攻撃してくるといったことは考えもしない。彼もまた「私は土木工学の専門家であって、津波の専門家ではありませんし、まして原発の専門家ではありませんから」などというのであろう。
 デカルト的な知のありかたの問題性は、20世紀に入ってからの哲学、そして医療の世界ではある程度反省され、一部で、心身の総合として人間を見ようとする全体医療ということが提唱・実践されるようになってきている。だが、どうも原発の世界ではまったく無反省の専門家だらけになっているように思える。原発の問題は、単に「工学的」「物理的」な問題ではなく、国民の命と健康にかかわる倫理的問題であり、差別を作り出す社会的・政治的問題であり、生物環境に甚大な影響を与える環境学的問題であり、経済学的な問題であり、神に対する人間の知のありかたにかかわる神学的問題である。原発はきわめて総合的な問題なのである。したがって、専門馬鹿原子力は扱えない。
 そういう中で、京都大学原子炉実験所の小出助教は、まったく異色の知性である。小出氏は、この資源の乏しい日本で原発は非常に有効なものだと思って大学で学び始められたのだという。しかし、原発は本質的に非常に危険なもので、その危険は過疎地域、最もまずしい労働者たちに押し付けることによって、日本という国・都市は経済発展を遂げていくのだ、という国のありかたを知って、原発はやめるべきなのだと思うようになられた。こういう差別はあるべきではないという意識が氏の原発反対の原点だという。また、福島原発事故収束の現場作業のために、エンジニアたちが立ち上がって、「シニア決死隊」を編成して、政府に自分たちを用いてくれと申し入れている。小出先生も、そのメンバーとして手を挙げていらっしゃる。氏にあっては、知ることと生きることとが密接に結びついている。
 アダムとエバが善悪の知識の木から実を取って食べて以来、知性は神の定めた分を越えて好き勝手に振舞うようになった。知性は、「神を畏れ隣人を愛して生きる」という人生の目的から遊離して暴走し、人間自身と地球環境を滅ぼそうとしている。パスカルがいうように、本来、知は神を畏れ自らの限界をわきまえることができてこそ、すぐれた知性なのだが。

 知識のありかたについて、いつも教えられる聖書のことば。
「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。 」1コリント8:1
 専門馬鹿に陥らないための、存在のありようについて示唆することば。もともと教会のありようについて教えている断章。
「神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。 」1コリント12:24-27

 また、パスカルデカルト的な知のありように警告を鳴らしていた。
「人から彼は数学者であるとか説教家であるとか雄弁家であると言われるのでなく、彼はオネットムであると言われるようでなければならない。この普遍的性質だけが私の気に入る。」

 娘といっしょに物置を作りました。だいぶアップグレードしました。
比較してください→http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20100417