苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神の約束の成就

使徒27:27−44
2011年5月22日


1. 水夫たちが逃げ出そうとする

 「十四日目の夜になって、私たちがアドリヤ海を漂っていると、真夜中ごろ、水夫たちは、どこかの陸地に近づいたように感じた。」(27節)
 14日目というのは、クレテの「よい港」を出てから14日目という意味のようです。二週間、パウロの乗る船はアドリヤ海を漂流していました。アドリヤ海というのは、地中海のなかでイタリア半島マケドニア半島のあいだあたりを意味しています。「紅の豚」の活躍した海です。ただ、それがアドリヤ海であるということは、船に乗っている誰もわからない状況でした。星も太陽も出ておらず、陸地もまったく見えなかったのです。
 ところが、水夫たちは、潮の動きによるのか、空気のにおいによるのか、それともカモメでもやってきたのか、陸地に近くなっていることを感じました。さすがですね。そこで、水夫たちは錘の付いた縄を下ろして推進を測りますと、40メートルほどになっていました。さらに少し進んで錘を下ろすと、30メートルです。(28節)
素人なら「岸が近くなった、助かる」と喜んでしまいそうですが、水夫たちは危険を察知します。このままこの喫水の深い大きな船で前進すれば、「どこかで暗礁に乗り上げ」てしまうということのです(29節)。もし座礁し動けなくなれば、船というものは波にいともかんたんに打ち砕かれてしまうものです。
そこで、水夫たちは、船の「ともから四つの錨を投げおろし、夜の明けるのを待った」のでした(29節b)。夜が明ければ、岸も見えるかもしれず、浅そうなところも水の色である程度は見分けられて、そろりそろりと岸に近づいていくことができましょう。
 ところが、この非常に危険な状況のなかで、水夫たちはこっそり自分たちだけ、船から喫水の浅い小舟で逃げ出そうとしたのです。「ところが、水夫たちは船から逃げ出そうとして、へさきから錨を降ろすように見せかけて、小舟を海に降ろしていた」(30節)
 とんでもないことです。パウロは叫びました。「百人隊長!あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたも助かりません」と言った(27:31)。それを聞いた兵士たちは、水夫たちが逃げ出せないように、32節「小舟の綱を断ち切って、そのまま流れ去るのに任せ」てしまったのでした。いくら屈強のローマ兵たちであっても、船の扱いができるわけではありません。水夫たちに逃げられたら、船を操ることなどできないのです。そんなことは、水夫たちはよくわかっているのですが、このような状況で船がどれほど危険なものであるかを一番よく知っているのは水夫たちでもあって命欲しさに自分たちだけ逃げ出そうとしたのでした。どの時代にもあってはならないことですが、ありがちなことでしょう。
私たちは、なんという無責任で使命感のない奴らだと、彼ら水夫のことを非難します。「あなたたちしかいない。撤退などありえない。覚悟をきめなさい。」と。けれども、こんな話を聞いたことがあります。「こら!卑怯者。逃げるな。」と小舟を下ろしている水夫たちを呼び止めると、くるりと水夫が振り返ると、恐怖が張り付いた水夫の顔が自分の顔とそっくりなのです。地獄絵です。私たちは弱い。弱いからこそ、「イエス様、ともにいてくださいますね。」と祈りつつ、その託された任務から逃げないで奉仕を続けたいものです。
 
2.神の約束

 さて、水夫たちを押しとどめ、船の人々は夜を徹して今後のことを話し合ううちに、東の空が白んできます。
「ついに夜の明けかけたころ、パウロは、一同に食事をとることを勧めて、こう言った。『あなたがたは待ちに待って、きょうまで何も食べずに過ごして、十四日になります。ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません。』
こう言って、彼はパンを取り、一同の前で神に感謝をささげてから、それを裂いて食べ始めた。」(27-35節)
 面白いですね。不安と恐怖のなかにいる人々を励ましているのは、船長でもなければ、航海士でもなく、百人隊長でもありません。護送されている囚人のパウロです。こういう状況になると、船長とか百人隊長とかいった肩書きはあまり意味がありません。ほんとうに神からのことばを受けた人が力を持つのです。
 この漂流が何日間つづくかわからないという状況の中で、もう14日間もみんなろくすっぽ食事をしてこなかったのです。しかし、今、陸地が近づいているという状況において、岸にこぎ寄せる小舟がない以上は、船を岸辺に近づけるだけ近づけて、あとは必死で岸まで泳いでゆく以外には方法はありません。であれば、失った体力を極力回復して、その時に備えなければならないわけです。
 パウロはみんなの前で、神様に対して感謝の祈りを堂々とささげて、食事を始めたのです。
「ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません。」(34節)
 助かるんだ。髪の毛一本も失われないんだと聞いて、パウロが食事をするのを見ていた船室のみんなは励まされました。パウロは、先に主の御使いから聞いた神のことばを根拠として、このように断言することができたのです。そして、「腹が減っては水泳はできませんよ。」とばかり、神様に感謝の祈りをささげて、むしゃむしゃと腹ごしらえを始めました。すると、一同もみんな元気付けられて、久しぶりの食事を腹いっぱいにしたのです。さあ、これから水泳だなあというわけです。そうして、喫水を浅くしてなるべく岸まで船が近づくことができるために、麦を海に捨てました。準備万端です。
「そこで一同も元気づけられ、みなが食事をとった。船にいた私たちは全部で二百七十六人であった。分食べてから、彼らは麦を海に投げ捨てて、船を軽くした。」

3.人の懸命の努力

 さて、すっかり夜が明けると、陸地が見えてきました。
「夜が明けると、どこの陸地かわからないが、砂浜のある入江が目に留まったので、できれば、そこに船を乗り入れようということになった。」(39節)
 風は感謝なことに陸に向かって吹いています。そこで、「錨を切って海に捨て、同時にかじ綱を解き、風に前の帆を上げて、砂浜に向かって進んで行った。」(40節)
 もちろん、このまま船が岸まで行けるわけではありません。船底がつくところまでとにかく入り江を進んで行くのです。入り江にはいって、しばらく進むと案の定、船は岸まで数十メートル残して浅瀬に乗り上げます。船がとまってしまうと、当然、波が船のともを打って、ともは破れ始めます。
「ところが、潮流の流れ合う浅瀬に乗り上げて、船を座礁させてしまった。へさきはめり込んで動かなくなり、ともは激しい波に打たれて破れ始めた。」(41節)

 船が失われることは、最初から織り込み済みのことではありますが、危機的状況であることは事実です。すると、兵士たちが護送中の囚人たちが、これをチャンスとばかりに逃亡することを恐れました。囚人に逃げられると監視にあたっていた兵士たちは、死刑という定めがあったので、兵士たちは囚人たちをみな殺してしまおうと相談しました(42節)。
これはパウロにとって、危機的状況です。
 しかし、そのとき百人隊長ユリアスが立ち上がりました。彼はカイザリヤからの旅の中で、パウロという人物が只者ではないことに気付き、特にこのところのパウロの発言と行動に尊敬と信頼を寄せるようになっていました。そして、それ以上に、ユリアスはパウロには神がともについているということを確信するようになっていたのでしょう。神の人パウロを殺すようなことをしてはならないと彼は思いました。それで、彼は「43パウロをあくまでも助けようと思って、その計画を押さえ」たのです。

 そして、「(43,44節)泳げる者がまず海に飛び込んで陸に上がるように、それから残りの者は、板切れや、その他の、船にある物につかまって行くように命じた。」のでした。「こうして、彼らはみな、無事に陸に上がった。」とあります。
 みなさん。目に浮かぶでしょうか。座礁した船から海に飛び込んだ人々が、必死で泳いで岸までたどりついた姿。板切れなどにつかまって、必死の思いで、岸へ岸へと泳いでゆく姿、そして一同岸にたどりつくと、ずぶ濡れのまま砂浜にばたりと倒れて、ふうふうと息をしている姿。あとからやってくる者たちを必死で救い出そうとする姿。
 神の使いはパウロに、約束なさいました。「恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになります。」その約束が成就したのです。そして、神の約束が成就していく姿とは、このような姿なのです。みなが必死で、懸命に努力して、そうして、神の約束がなっていくのです。
 神の約束と人の努力とは、矛盾することではありません。神が約束を賜り、人はその神の約束が成就してゆく摂理の御手によって用いられるものなのです。
神の約束と人の努力の関係は、岸にむかって必死で泳ぐ彼らの姿に現れています。神を知らぬ人は恐怖に掻き立てられてがんばり、神を知る人は、神の約束ゆえに平安の内に努力するのです。