苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

沖縄の宮村先生が千葉市川に


   小海、新緑


 沖縄の宮村武夫先生が、千葉県市川市に引っ越して来られるとのことで、メールをくださった。出発は5月24日とのこと。
 先生が東京を立って沖縄に行かれたとき、「そういえば宮村先生は沖縄のことを時折、熱く話しておられたなあ」と思い出したものである。その少し前に、筆者は神学生時代からの「葦原」の志を果たすために、信州南佐久郡に宣教の場を転じていた。宮村先生が沖縄に転じられたのは、かならずしもご自分の意志によることではないとうかがうけれど、神の御摂理のなかで「よし」と前に進まれたのだった。
 沖縄に身を置かれてから、宮村先生は沖縄における神学を模索し、提唱してこられた。沖縄という本州を離れたところから聖書というめがねで日本を見ること、そして離島から沖縄本島を聖書というめがねで見ること、そのときに見えてくることがある。そのようなことを言われた。アウグスティヌスは、ローマではなく地中海を隔てた対岸のヒッポに身を置いている者として、聖書の光の下で『神の国』を書いた。それでこそ見えてくるものがあったのだろう。
 かつて海洋の琉球王国であった沖縄が、薩摩藩支配下に置かれ、やがて明治政府の下に移され、先の戦争後、米軍占領下に置かれ、本土復帰後も米軍基地のかせをはめられてきた。筆者は不勉強で、沖縄のことについては本を少しばかり読んだだけで、しかも、なぜか宮村先生がいらっしゃるのに沖縄に出かけることをついにしなかった。生来の出不精と懐のさびしさだけでなく、何か心の中にとどめるものがあったのである。それが何かは、今もよくわからない。
 アウグスティヌスのいたヒッポは、かつてフェニキア人の築いた西地中海の大国の拠点であった。通商の才にたけたフェニキヤ人は、もともとパレスチナのシドン、ティルスの出であるが、地中海を自由自在に動き回って各地に拠点を作ってきたのだが、やがて東地中海よりも西地中海世界で力を持つようになっていった。そして、共和制時代のローマと衝突し、長年にわたるポエニ戦争ではハンニバルという英雄の奮戦があったものの、最終的には滅ぼされてしまった。その後、ヒッポ・レギウスという町がかつてのカルタゴの地に築かれ、対岸のイタリア半島からもローマ人たちが入植してきた。アウグスティヌスの父親は、そういうローマ人である。しかし、彼の母モニカは北アフリカベルベル人であったという。アウグスティヌスの心の底には、ローマに対する憧れと憎しみのアンビバレントな感情があったであろう。そういう彼が蛮族によるローマ陥落と多くの難民の来訪という出来事に直面して、聖書に聞きながら『神の国』を書き始めたのである。
 アウグスティヌスの話が長くなり過ぎた。
 沖縄という場所に身を置いて、聖書で日本を見てこられた宮村先生が、大きな地震を経験し、かつ、今なお収束しない福島第一原発の被曝の不安の中にある本州、千葉に戻ってこられる。神様は、宮村先生に今度は何を教えようとしておられるのだろうか。このごろ先生はお電話をくださるたび、「喜びかたつむり」、そして「被爆者キリスト」ということばを話される。

今年も畑の準備完了。