苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

大相撲村と原発村

 かねてから大相撲村の八百長体質と、原発村の八百長体質は似ているなと思っていたが、奇しくもその内情をこの世に曝してしまった時期まで同じだった。だが、大相撲の八百長の実害はさしたるものではないが、原子力村の実害はあまりにも大きすぎる。
 相撲には、伝統芸能(神事)と興行と競技という三つの側面がある。八百長が問題になるのは、相撲を競技として見る風潮が最近の支配的傾向であり、そうだとすると、八百長はけしからんということになるからである。競技においては厳格な公正性が求められるからである。しかし、相撲が伝統芸能であり、プロレスや劇団のような興行であるという捉え方をするならば、八百長についてそんなに大騒ぎすることはない。ある程度の八百長がなければ、あの大相撲番付表という伝統芸能としての様式美も成立しないだろう。すべてガチンコでやっていたら、横綱大関が優勝し続けることはむずかしく平幕優勝がたびたび起るからである。興行だというのは、どの力士とどの力士をぶつけるかというを興行としての面白みを考えて、按配している点にある。大相撲に競技としての公正さをあまりにも厳密に求めるのは、どう見ても無理がある。
 しかし、原子力の運営については八百長があってはならない。原子力の運営における八百長は、人を殺し、地域を滅ぼし、一国を滅ぼし、世界をも滅ぼしてしまうから。現状の原子力村における八百長というのは、政治家・官僚・御用学者・業界(メーカー・ゼネコン・電力会社)・マスコミがもたれあって、原子力発電の危険性について、真実を覆い隠してきたことである。原子力の運営は、伝統芸能でもなければ興行でもない。そこには真実に基づく厳密な安全が求められる。
 原発村の八百長体質の行政の側における致命的問題点を一つ挙げれば、原子力安全・保安院というのが経済産業省の下にあることがある。経済産業省は経済と産業を振興してこそ評価されるという価値観に立つ省であるのだから、経済産業省のもとにある安全・保安院原発の安全チェックなどできる道理がない。原子力安全・保安院がチェック機能を果たすためには、むしろ環境を保全してこそ評価されるという価値観に立つ環境庁や、国民の健康を守って評価されるという価値に立つ厚生労働省の下に置かれるべきなのである。


  ロダです。