苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

福音はペストのごとく

                小海キリスト教主日礼拝説教梗概                  2011年2月13日 

 「この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり・・・云々」と大祭司の弁護士は、総督ペリクスにパウロを訴えた。「ペスト」ということばを聞いて、パウロは苦笑いし、かえって励まされたのではないだろうか。瞬く間に世界に広がってしまう致死率の高い恐るべきペスト。これからローマに、イスパニアに、そして地中海世界にあまねく福音を大宣伝していくことを志しているパウロにとっては、ペストのような男と呼ばれて、かえって嬉しかったであろう。
 弁明において、パウロキリスト者としての二つの務めを果たす。第一は、裁判において正確な事実を証言するという社会的責任である。事実、パウロは12日前に礼拝と施しのためにエルサレムに上ったのであり、宮のなかでは静かに礼拝していただけであり、サンヒドリンでも復活の希望を一言語っただけだった。大祭司の訴えは事実無根のことであると証言した。法廷は、社会正義の実現のために神がお立てになった制度であるから、そこでは事実が事実として正確に証言される必要がある。偽りやごまかしがあってはならない。
 また社会的責任は裁判の証言だけではなく、日常生活のさまざまな営みすべてを含んでいる。寒い朝、雪かきをさぼらないで朝早く出ることや、主婦ならば家族のためにおいしく滋養ある料理をつくることや、学生ならばしっかり勉強することや・・・。食べるにも飲むにも何をするにも神の栄光が表わされるようにすることである。
 パウロの弁明内容の第二は、伝道である。主イエスが言われたように、キリスト者がその信仰のゆえに法廷に引き出されることがあったとすれば、それは、神が用意された福音宣教の機会である。そこで、パウロは、このチャンスを生かして、善人であれ悪人であれ、終わりの日には復活すること、そして、聖なる神の法廷に立たねばならないことに言及した。裁判後はさらに彼は総督ペリクスにイエス・キリストへの信仰について個人的にも話している。たとえ総督であろうと皇帝であろうと総理大臣であろうと天皇であろうと、聖なる神の前では滅ぶべき罪人、救われるべき罪人であるからである。しかし、残念ながら俗物であり、何事であれ決断を先送りにするのが習い性になっていた総督ペリクスは、信仰の決断を先送りにして、自らに滅びを招いてしまったのではあるが。
 私たちはキリスト者として、社会的責任と福音の宣教という二つの務めを主から託されている。キリストの愛をその生活をもって証言しつつ、福音への反対者からは「この人はペストのような存在である」と言われるまでに、主イエス尊い福音を託された八ヶ岳山麓の人々のうちに「蔓延」させ「感染」させたいものである(笑)。



  abuさん。元気ですか。ロダは元気にしていますよ。