苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神を知るには

 新年を迎えて、地域に配っている『通信小海』の一つの欄で、神様ことをどんなふうにして知るかということを、わかりやすく順序立てて書いて、読者の求道に役立てればと思っている。今回書いたことは『神を愛するための神学講座』(1991年)の最初の部分に書いた内容である。若い日にG.Vos,Biblical Theologyを読んでなるほどと思ったことに基づいている。

二種類の「知る」がある

 わたしたちはいろいろなものを知っています。リンゴとか、椅子とか、懐中電灯とか、隣の鈴木さんとか、いろいろと知っています。ですが、同じ「知る」といっても、モノを知る場合と、人格を知る場合とで、知り方が根本的にちがっているように思います。相手が石ころやコンピューターなど、モノであるばあい、私たちはそれを切り刻んだり分解したりして、客観的に精密に仕組みを調べて行けば、そのモノを知ることができるでしょう。ドライバーでばらしたり、顕微鏡を使ったり、さまざまな物差しをあてたりして、判断をするわけです。
 でも、人格を知ろうとするばあいには、そうは行きません。もし鈴木さんという人を知りたいからといって、つかまえてきて切り刻んだりすれば、たしかに鈴木さんのモノとしての側面を知ることはできるでしょう。体重は七十キロ、水分が五十キロ、炭素が十キロ、カルシウムが・・・というふうに分析して、です。けれども、それで鈴木さんを知ることが出来たかというと、そんなことはありません。病院に行ったら、いろんな検査をされてデータを取られたことがあるでしょう。医者はそうして内臓のどこにどういう欠陥が生じているのかということを推測します。じゃあ、それで医者はあなたのことを人格として知ったことになるかというと、そんなことはありません。あなたのモノとしての側面だけを知ったにすぎないのです。
 人格を知るというのは、その人と「知り合いになる」ことです。日本語の「知り合う」ということばによく現われているように、人格を知るというのは、エンジニアが自動車を知るように、あるいは医者が患者を知るように、片方だけが相手を一方的に知るというのではなくて、お互いに知ることなのです。もしあなたが鈴木さんと友だちになりたければ、あなたが鈴木さんのことを興信所を使っていろいろ詳しく調査すれば、鈴木さんと友だちになれるでしょうか。いいえ。興信所で自分の身元調査をするような人とだれが友だちになりたいでしょうか。
 あなたが鈴木さんと友だちになりたければ、あなた自身も鈴木さんに対して心を開かなければなりません。鈴木さんに、自分のことを知ってもらってこそ、あなたも鈴木さんを知ることができるものです。あなたが、自分の趣味とか経験とか関心のあることをじょじょに話して自己紹介をして、鈴木さんもあなたに対して心を開いてくれて、彼の趣味や家族や関心事や体験などを話してくれて、そこに交流が生まれます。やがて、お互い胸のうちの痛みや喜びを話すことができるような間柄になれば、友人ということが言えるでしょう。こうして共感するときに、初めてそこに、「知り合う」ということが起こります。出会いということが起こるのです。


神と知り合う

 聖書にご自分をあらわしてくださっている神様は、モノではなくて人格です。ですから、もしあなたが神様のことを真実に知りたいと願うならば、まるでモノを知ろうとするような態度で、知ろうとしてはなりません。そんなことをしても時間のむだですし、また神様に対してたいへん失礼なことでもあります。
 神様を知るためには、ひとつには神様のほうが私たちにご自分の胸のうちを開いて教えてくださる必要があります。神様さまが私たちに対して、ご自分の心を開いてを教えてくださることを、「啓示(けいじ)」と言います。
実際、神様は聖書という書物を通して、私たちにご自分がどんなお方であり、歴史の中でどんなふうに行動をなさってきたのかということを教えてくださいました。ですから、私たちは聖書を読むこと、聖書が説き明かされることを聞くならば、とりあえず神様を知ることができます。
けれども、それだけで神様を知ったことにはなりません。なぜならば、神様は人格であるからです。人格を知るということは、一方的なことではなくて、お互いのことです。知ったり知られたりしてこそ、人格的な出会いということが起こります。友人となることができるのです。
 神様は、あなたに対して聖書を通してまずご自分について明らかにしてくださっていますから、それに耳を傾けることが大事です。そして、あなた自身が、神様に向かって自分の心を開いてお話しすることが必要です。このことをキリスト教では、「お祈り」と言います。
 ある人は、高校三年生のときに母親を失い、母の遺品のなかに赤鉛筆でたくさん線が引かれた聖書を見つけたそうです。そして聖書を開いて読もうと思いました。でも、聖書がほんとうに神様のことばかどうか、どうしてわかるでしょうか。そこで、彼女は、こんなふうに祈ったそうです。
「ほんとうの神様。私はあなたのことを知りたいと願っています。それで、聖書を読み始めましたが、いったい聖書という本が、ほんとうの神様、あなたがくださった書物であるかどうかがわかりません。もし、ほんとうに聖書が、あなたが下さった本でなければ、私が信じないようにしてください。でも、もしほんとうに聖書が、あなたのおことばであるならば、私が、聖書をとおしてあなたのことを知ることができるように導いてください。」
 こうして聖書をむさぼるように読み始めて、二ヶ月で旧約聖書新約聖書を読み通してしまったといいます。(すごい高校生ですね。私は最初の通読に一年以上かかりました。)彼女が聖書を読んでいるなかで、一つのことばが今まさに彼女に神が語りかけているように迫ってきたそうです。
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」
とても不思議なことですが、彼女は「ああこの聖書をとおしてほんとうの神様が、自分のことを愛していてくださるのだ」とはっきりと知ることができたのでした。
 あなたも、もし神様を知りたければ、神様に向かって心を開いて率直にひとことお話しすることです。神様は生きていますから、答えてくださいます。(『通信小海』2011年1月号から)