苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

MBC元日礼拝 耕地を開拓せよ

 元日、松原湖バイブルキャンプに同労者の菊池実牧師が講師として来ているというので、キャンプの元日礼拝に出席した。菊池先生とは同年齢で、教団でも同じ場で仕事をさせていただいている。一休みしていた師の奉仕復帰第一歩と聞いたので、陰ながら祈り支えるためにもと思って出かけた。
 説教者はみな経験するところなのだが、たしかに説教には準備においても、話すことにおいても、相当の時間とエネルギーを要するのは一方の事実だが、もう一方で説教者自身が、そのご奉仕を通して上からの力に満たされて元気になるということも事実なのである。マシュロムハ?(ごきげんいかが。)で始まった菊池牧師の説教をうかがいながら、今まさに上からの御力が注がれている感じた。
 礼拝後、はるかに浅間山佐久平が望める八ヶ岳中腹の海抜1706メートルの絶景ポイントに向かう車中、そんな感想をお話したら、まさにその通りだったとのこと。
 教えられたところを抜粋的にメモしておく。写真は菊池先生撮影。


  
「あなたがたは自分のために正義をまき、
 いつくしみの実を刈り取り、
 あなたがたの新田を耕せ。
 今は主を求むべき時である。
 主は来て救いを雨のように、
 あなたがたに降りそそがれる。」ホセア10:12口語訳

 イスラエルでの小麦のスケジュールを思えば、ことがらの順序は、<耕地を開拓し、先の雨が注がれ、次に、種を蒔き、後の雨によって成長し、ついに、収穫の季節が来る>である。正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れるには、耕地を開拓し主の恵の雨の注ぎを待つことだ、ということ。
 イスラエルの気候は明確に乾季と雨季に分かれている。私たちの暦で言えば、11月から翌年2月までがイスラエルの雨季であり、雨季の始まり9月末に「先の雨(ヨーレー)」が降り、雨季の終わり3月末から4月に「後の雨」が降る。そして収穫の季節がやってくる。「主は・・・注がれる」の「注ぐ」というヘブル語も「ヨーレー」である。
 乾季、一滴の雨も降らないために、その終わりには大地はからからに乾いて鍬の刃を立てるのが困難なほどの岩地となってしまう。乾季に成長するさまざまな野菜、果物は夜露による。しかし、9月、すなわち乾季の終わりころ、人々は主がきっと先の雨(ヨーレー)を注いでくださると信じてこの岩のような大地を鍬で耕す。やがて神がその真実をもって恵みの雨を注いでくださると、大地は潤いを取り戻し、人々はそこに麦を蒔く。麦は青々と大地を覆う、そして後の雨(春の雨)が注ぎ始めると、麦は急速に成長してやがて収穫の季節となる。
 この、耕地を「開拓する」とも「割る」とも訳される「ニル」ということばは、原野を切り開くという意味でも用いられることばであるが、それだけではなく、上にいうような夏場に雨が一滴も注がないためにからからになってひび割れた耕地を、雨季(ヨーレー)を前に主への信仰をもって耕して、種まきに備えるというばあいにも用いられることばである。
 さて私たちの信仰の人生の出発点に立ち返り、主からあの日に与えられた使命、ビジョンを振り返るとき、もしかすると勇気が出ず鍬で耕そうともしないまま長らく放置している地があるのではないだろうか。石地だから・・と鍬を下ろすこともなく、あきらめていたその荒地に、今、鍬を下ろすべきではないだろうか。たとえ今はからからでも、まもなく主が先の雨を備えていてくださる。そうすれば種を蒔き、そして後の雨によって成長させられて、ついには収穫するときがやって来る。

 あなたの人生のなかであきらめて手をつけないままになっていた地はないだろうか。主はそこに祝福の雨を注ごうとして備えておられる。それを信じて、この年、開拓を始めようではないか・・・と迫る菊池実牧師の説教に御霊の力を感じ、私の開拓すべき耕地はどこかと心探られ、「ああ、あれかな?」と思った。「あれ」とは何か。今は秘密。