9.ウィリアム・オブ・オッカム(William of Occam1285or1300-49or50)
(1)生涯
オッカムは1309年―1315年までオックスフォードに学び、聖書を講じ、1317年からロンバルドゥスの命題集を講じる資格を得て、神学講師となるが、正規の教授職とはならなかった。それは彼の神学上の特異な主張による。1324年彼はその主張のゆえにアヴィニョンの教皇庁(ヨハネス22世)に呼び出され、1328年までフランチェスコ修道会に住まわせられる。
当時、フランチェスコ会は会祖の清貧の思想をめぐって論争があった。彼は絶対無所有を主張したので、ヨハネスによって追放され、ミュンヘンのドイツ皇帝ルートヴィヒ4世に保護を求めて亡命する。以後、その死にいたるまでミュンヘンで絶対無所有の厳修派のリーダーとして活動。しかし、ルートヴィヒの死によって立場が危うくなり、彼はフランチェスコ会総長の印璽を返し、クレメンス教皇に前言取り消しをする。その直後、オッカムは黒死病で死去。
(2)神学:主意主義、唯名論(ノミナリズム)
オッカムはスコートゥスから主意主義を受け継いだが、スコートゥスの実在論についてはこれを批判して、唯名論nominalismを確立した。
主意主義について。主意主義voluntarismとは主知主義intellectualismに対することば。実在の根底をなす原理を知的なものとみなすのが主知主義であり、意志的なものとみなすのが主意主義である。オッカムにとって活ける神は全知全能であり、ただ神のみが自立にして自存者である。「神が意欲されることはすべて正しく適切である。端的に神がそれを意欲されるからである。」(オッカム)
唯名論について。オッカムは「何事も必然によることなしに確かだと断言してはらない。」という後世の人が「オッカムのかみそり」と呼ぶ認識の原則を立てる。「少数の論理でよい場合は多数の論理をたててはいけない」ということで、つまり、最善の策とはもっとも単純な解決策であるとすることである。「ある命題が真実であると確証したり、ある事物が存在すると確信したりすることが我々に許されるのは、それが自明であるか、啓示、経験あるいは啓示された真理か、観察によって確認された命題からの論理的帰結として、そのようにせざるをえなくなる時のみである。」(祭壇の秘跡について)。
しかるに、普遍的なものは認知する者の思考のなかに存在するだけであって、反対に、その外には普遍を観察することはできないのである。ゆえに、普遍は実在しない。
オッカムの唯名論は後世に大きな影響を及ぼすことになる。たとえば「教会」という言葉は、具体的にある礼拝堂で礼拝に参加する会衆にだけかぎられ、それを超えてより包括的な全体教会というのは単なる呼び名にすぎず、実体はないことになる。これは教皇よりも教会会議が重要という哲学的・神学的根拠となっていく。
中世の神学 結び
ドゥンス・スコトゥスそしてウィリアム・オッカムの唯名論はヨーロッパ中世という世界を揺るがす理論となる。中世ヨーロッパとは、霊的領域におけるローマ教皇という普遍的権威、世俗的領域における神聖ローマ皇帝という普遍的権威の緊張関係によって成り立っていたからである。普遍ではなく、個物(特殊)が優先し、普遍とは名目上のことにすぎないという唯名論の主張は、聖なる領域はローマ教皇という普遍的な権威が、俗なる領域においては神聖ローマ皇帝という普遍的王権がヨーロッパ世界を統治するという、中世的な権威の構造もまた名目上のことにすぎないという主張の理論的根拠となる。唯名論は、世俗領域にかんしていえば、各国の独立の正当性の理論的根拠を提供する。霊的領域については、ローマ教皇の権威よりも具体的な諸教会の意見を集約した教会会議のほうが優先するという理論的根拠を提供する。
また、アベラールのうちに胚胎し、スコトゥスにおいてことばにされ、オッカムに継承された主意主義は、哲学と神学の区別という事態を来たらせることになる。改革者ルターは「アリストテレスを忘れなければ神学者たりえない」と言ったことに響いていくわけである。