苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

高い地位にある人々のために

使徒18:12−17
2010年9月26日 小海主日礼拝

1.コリントでの騒動
 
 「この町には、わたしの民がたくさんいるから」という主イエスのことばに励まされて、使徒パウロはコリントの町に1年半の間腰を据えて伝道を続けました。主のお約束どおり、パウロが語るキリストの福音を受け入れる人々が、コリントの町から次々と起こされました。その代表的人物は、テテオ・ユストとその家族、会堂管理者クリスポ・ソステネでした。
 このことに腹を立てたのがユダヤ教の会堂の人々でした。そこで彼らは、この世の法廷にパウロを引っ張って行って訴えたのです。時の総督はガリオでした。(18:12,13)
 パウロは弁明をし、この際、ガリオにもイエスのことを宣べ伝えようと口を開こうとしました(14前半)。ところが、ローマから派遣されていた総督ガリオは、面倒くさそうに言いました。14節後半−16節。
 ローマ帝国は、地中海世界を手中に収めて、さまざまな民族国語の人々を傘下におさめるようになりました。それぞれの民族は、多種多様な宗教を持っているわけですが、パウロ当時のローマ帝国の基本姿勢としては、それぞれの民族が税金を納めて帝国民としての義務を果たしているならば、それぞれの宗教を持ち続けることを許し、それには立ち入らないという立場をとっていました。だから、ガリオはユダヤパウロユダヤ教の会堂の人々とことばや名称や律法について争っていることについては、自分はノータッチだと宣言したのです。ローマから派遣された総督ガリオとしては、「不正事件や悪質な犯罪」を裁くのは自分の仕事であるけれど、宗教問題は自分は扱わないと言ったのです。
 すると、ユダヤ人たちは、総督がさばいてくれないならば、自分たちでやるしかないということで、「そこで、みなの者は、会堂管理者ソステネを捕らえ、法廷の前で打ちたたいた。」というふうに、パウロの協力者ソステネをリンチにしてしまったのです。パウロに手を出さなかったのは、たぶん彼らはパウロがローマの市民権を持っていたからであろうと思われます。ローマの市民権を持っているものをリンチにしたら、ローマ総督が黙っていまいと思ったからです。はたして、「ガリオは、そのようなことは少しも気にしなかった。」とあります。
 この箇所は私たちに何を教えているでしょうか。新約聖書のこの世に立てられた権威に関する教えから、私たちはローマ総督ガリオの態度と行動について、どのように評価すべきでしょうか。この世の国家権力について今まで何度かお話したことがあります。どの聖書箇所を参照すべきでしょうか?・・・そうです、「ふたつのR13」です。一つはローマRomans13章、もう一つは黙示録Revelation13章。

2.上に立てられた権威

ローマ13章1節から6節。
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。」
 ローマ13章1−6節から学ぶべき第一のことは、国家権力は神によって立てられているということです。したがって、私たちは国家権力を基本的に重んじて従うべきです(1,2節)。具体的にいえば、スピード違反だと警察が止めに来たら、逃げたり怒ったりしないで、すみませんと誤って罰金を払うべきです。
 ローマ13章が学ぶべき第二のことは、国家権力に神様が託された務めはなにかということです。国家権力の務めは、善をなす者をほめ悪をなす者を罰することによって、社会の秩序を維持し(3,4節)、税金を集めて民全体の福利を図ることです(6節)。つまり、注目すべきことは、国家に神様が託された務めは、宗教的な領域に及ぶものではなく、世俗的・外的な業務に限定されているということを私たちは認識する必要があります。今日風のことばで言えば、聖書は政教分離原則を教えているということができましょう。
 ところが、世界の歴史、日本の歴史をみれば、国家権力者はしばしば宗教的な領域にまで口出しをしたり、また、国家宗教を造ってこれを国民に強制してきたという現実があります。たとえば、明治維新後、明治政府は「祭政一致」を唱えて、天皇を中心とする国家神道をつくりだして、国民を国家神道によってまとめようとしました。なぜ、そんなことをしたのでしょう?悪魔が、国家権力を操っていたからです。黙示録13章1節から4節を開いてください。海からの獣とはローマ帝国、竜とは悪魔です。
 「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。 私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう」と言った。」
 国家は、国民が仕事をし家庭を営み宗教生活ができるように社会秩序を守る任務を与えられています。けれども、国家権力にとって都合の良い宗教のものにかぎってしまうのは出すぎた行為つまり越権行為なのです。ローマ帝国はやがて皇帝を神格化して帝国民に皇帝崇拝を強制するようになっていき、拒んだものは処刑されるようになりますが、この当時はそこまでひどい状況にはなっていなかったようです。

3.ガリオの行動の評価

 ローマ書と黙示録、それぞれの13章の観点から見てみると、アカヤ州に派遣された総督ガリオの評価はどうなるでしょうか。
 第一は、肯定的な評価です。ガリオは、ユダヤ人たちがパウロを法廷に訴えに来たときに、それに取り合おうとしませんでした。「不正事件や悪質な犯罪のことであれば、私は当然、あなたがたの訴えを取り上げもしようが、あなたがたの、ことばや名称や律法に関する問題であるなら、自分たちで始末をつけるのがよかろう。私はそのようなことの裁判官にはなりたくない。」これはまさに政教分離の原則にのっとった正しい態度でした。国家権力が、この宗教のここは正しい、この宗教のここはまちがっているということを言うことは越権行為なのです。
 第二は、否定的な評価です。それは、彼は自分が「不正事件や悪質な犯罪のことであれば、」自分の職務の範囲内のことであると言っていました。そう言っていながら、法廷の前で人々が会堂管理者ソステネを袋叩きにしているのに、「ガリオは、そのようなことは少しも気にしなかった。」とありますから、これはどう考えても職務怠慢です。彼は単なる裁判官ではなく総督ですから、動かせる兵士を持っていたのですから、当然、彼らに警察行動をとらせて、この暴力行為を止めるべきところだったのに、なんとも思わなかったと言うのです。けしからん話です。結局ガリオは保身や出世に関して利益あること以外は考えていない、つまらん行政官であったということです。

 1995年、今からもう15年前に、オウム真理教事件というのがありました。そのとき、破壊防止法を適用するかどうかということでずいぶん議論になりました。破壊防止法というのは、暴力主義的活動を行った団体に対して、規制措置を定めたり解散を強制する法律です。もともと新左翼運動を取り締まるためにできたものでした。「防止」ということばがあるように、団体の思想内容をチェックして、その内容から考えて、今後も破壊的な行動をとる可能性がある団体であると認定された場合、その団体に規制をかけたりつぶしてしまう法律です。普通の傷害罪とか器物破損罪とか殺人罪というのは、実際に、そのような事件を起こした人をさばくのですが、「防止法」は起こしそうだなと国が判断したら、それを防止するためにつぶしてしまうわけです。
 地下鉄サリン事件では、「破壊防止法を適用せよ」と叫ぶ人々も結構いたのです。けれども、司法はあのとき破壊防止法は適用しませんでした。それが前例になると、国がある思想や宗教が気に入らないと考えたら、恣意的にこれをつぶしてしまえるということになって、思想信条の自由、信教の自由という基本的人権を犯して憲法違反になるからです。というわけで、結局、オウムをさばく法律としては、通常の刑法が適用されて粛々と裁判は進められてきました。国家権力というのは、思想や宗教に対して、自分の立ち入るべき領域ではないということをわきまえておくこと、わきまえさせることが大事なことです。

結び
 私たちはクリスチャンとして、今日のみことばからどういう任務があるかを結びとして確認しておきましょう。
 第一に、祭司として、身近な家族や兄弟姉妹のために祈るとともに、国家の権力を持つ高い地位にある人々のためにも祭司として祈るべきだということです。(1テモテ2:1−2)彼らが悪魔の誘惑に負けることなく、己の分をわきまえて、その与えられた務め(社会秩序の維持と、民の福利のため)に励むことができるように。傲慢にならず、権力欲、出世欲のとりこにならず、国民に仕える思いを以て、謙遜にその務めをはたすことができるように、と祈ることです。
 今日、検察とくに東京・名古屋・大阪にある地検特捜部の暴走と腐敗が問題になっています。法律の番人であるべき検事たちが、違法な捜査を行い人を陥れるということが行われていることが明るみに出ています。検察のシステムが正常に機能するように改革が必要なところです。検察官僚は他をチェックする仕事をしているのですが、検察をチェックする仕組みが機能していないことが問題なのです。私たちはこの国で正義あるさばきがなされるようにシステムが改良されるため祈るべきです。
 第二に、預言者として、時には彼らに警告を発する必要があります。権力者が分を越えて過ちを犯しそうになったとき、過ちを犯すとき、彼らに警告を発する務めがあります。預言者ナタンが、ダビデ王に対して悔い改めを求めたでしょう。あるいは、預言者エリヤやイザヤやエレミヤが王に対して神からの警告を発したでしょう。そのようにです。戦後の日本でいえば、靖国神社国家護持という法案が何度も出されては、教会は祈り、また預言者的に反対声明を出しました。こんな政教分離原則を踏みにじる法律ができてしまったら、わが国はふたたびサタンの餌食になってしまいますから。預言者的な務めを果たすことは、単に教会を守るためではなく、この国と国民の平和のためです。

そして第三に、またクリスチャンである自分自身が公務員になったならば、己の立身出世のためではなく、分をわきまえて、謙遜に民に仕えるべきです。仕える喜びを知っているしもべとしての心を持ったクリスチャンの中から、地方公務員にせよ、国家公務員にせよ、政治家にせよふさわしい人々が起こされることも大切なことです。