苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

海はつなぐ

 昨日のイスラム進出とヨーロッパ中世の始まりの記事のなかで「一般に、海というものは隔てるのではなくて、つなぐものだという認識は歴史理解の上でとても大切である。トラックや鉄道のない時代、陸路では大量の物資も多くの人をも運ぶことは困難であった。大きな川や山があればなおのことである。しかし、海に舟を浮かべれば大量の物資や人員を運ぶことは古代であっても容易だったのである。」と書いた。
 これは日本史理解のうえでも重要である。「日本は島国で、周囲から閉ざされれいる」という意識は、江戸幕府鎖国政策を布いた後のことであって、それ以前、古代から日本は大陸と密接につながっていて、人も文物もたくさん往来してきたのである。古代のことをいえば、正倉院の御物にペルシャ渡来を始め西方由来のものがさまざまあるのを見ればわかるように、日本はシルクロードの東の端の吹き溜まりだった。シルクロードの東の終着点は一般に長安とされるが、その延長に京都と奈良があった。キリスト教が戦国時代まで日本に来なかったというのも、いかにも不自然な話であって、もっと古代にやってきたのではないかという説もある。
 もう十年以上前に見たNHKスペシャル「DNA」によれば、紀元前100世紀頃から北アジアの北モゴロイドが移動し始め、ひとつはベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に移り住むようになり、ひとつはこの東海に浮かぶ列島に移住した。彼らが縄文人なので、縄文人と米大陸のインディオのある種族とアイヌのDNAは酷似しているそうである。そこに紀元前5世紀から3世紀に大陸から50万とも100万ともいわれる新モンゴロイドが渡来する。いわゆる弥生人である。(近年、これよりさらに弥生文化を500年早める説もある)。弥生人縄文人との人口比については、「近畿地方の古墳人は縄文直系の子孫1に対し渡来人系9の割合で混血した集団であり、中国地方のそれは縄文2に対し渡来8の混血と考えるのが最も適当だ」という(埴原和郎)。ここに縄文人と渡来人との交流・混血が起こって弥生文化ができた。
 時代は下って、紀元後4世紀から7世紀、朝鮮半島三国時代、戦乱を避けて多くの人々がクニごと舟に乗ってこの東海の列島に移住してきて、あちこちに都市国家を造った。彼らを新渡来人と呼ぼう。有名どころでは、島根の出雲政権、岡山の吉備政権、奈良の大和政権。飛鳥、奈良の時代になると、吉田晶氏(岡山大)によれば、河内国の新渡来系氏族は、古市郡では12氏のうちの8氏、高安郡で18氏のうち12氏、安宿郡で8氏のうち6氏、交野郡で10氏のうち8氏、讃良郡で8氏のうち6氏、河内国においては計68氏の70%が新渡来系だったという。大和朝廷形成期、飛鳥や奈良時代の氏族階級の主流は新渡来人だった。もちろん大君とよばれた天皇も、one of themであった。要するに純日本人などおらず、日本人は全員渡来人なのである。あえて純日本人が誰かといおうとすれば、一番古い渡来人である縄文人の子孫にあたるアイヌがそれにあたる。
 その後も大陸との交流は江戸幕府鎖国が始まるまで、遣隋使、遣唐使、清盛の日宋貿易や、義満の日明貿易桃山時代から江戸初期は朱印船貿易というふうに、ずっと続いている。明国の滅亡には、倭寇の中国沿岸の度重なる侵略行為が原因していたとされる。
 筆者は、鎖国以前の列島住民と鎖国以後の列島住民の気質がずいぶん変わったものだと感じる。鎌倉仏教の指導者たちが時の政権に弾圧されても彼らの信念を捨てず、彼らを支持する民衆が多かったし、秀吉の時代には多くのキリシタンが敢然と殉教し、キリストにしたがうためにこの島国を後にしてフィリピンに移住した高山右近がいたりした。この列島の住民の精神は、鎖国幕藩体制隣組制度という息苦しい時代をくぐって矮小化される以前はもっと自由闊達・気宇壮大であったように感じられてならないのである。いや、明治の最初に起こった長崎のキリシタン大弾圧浦上四番崩れでも多くの殉教者を出したことを見れば、お上に対する恐怖心と精神の矮小化は、幕藩体制だけでなく明治以降の国家神道による近代天皇制が作り出したものと見るべきなのかもしれない。