苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

検察の問題:罪人が罪人をさばくためには

 元厚生労働省村木厚子さんの事件で、先に「検察の裏づけなしのお粗末捜査」と書いたが、それどころれはなかった。検察は、証拠として押収したフロッピーディスクの内容が自分たちの思い描いたストーリーに不都合なので、改ざんしてまで、自分がねらったターゲットである村木さんを犯罪者に仕立て上げようとしたらしい。「お粗末」ではすまされる問題ではなく、きわめて悪質な犯罪である。
 この検察特捜部の腐敗は、担当した検察官個人のフロッピー改ざんという一点の問題ではなく、組織全体の問題である。特捜部検察官も結局、自分の出世のために華々しい成果を挙げたい、あるいは、失敗したくないという普通の利己的な官僚にすぎないのであるから、悪を撃つ務めをになう検察官自身も悪であることを前提にして、チェック機能が働くように組織を立て直さなければならない。
 通常検察の仕事は、警察での捜査書類を調べて、起訴か不起訴を決めることである。被疑者を捕まえた警察は、自分がつかまえたという面子にかけて、どうしても被疑者を黒にしたいという心理が働く。だから、検察が書類を客観的にチェックする。ところが、特捜はその名のとおり、自ら捜査して被疑者をつかまえてしまうから、チェックが入らない。自分でつかまえた以上、どうしても黒にしたいというのが、自己正当化を本性とする罪ある人間の現実である。
 したがって、大事なことは検察特捜部に対する客観的チェック機能をもたせることである。一つは取り調べの完全可視化である。もう一つは押収した証拠を弁護側に対して全面開示することである。現在は、検察に都合の良い証拠のみを開示することになっている。この二つのことが実行できないなら、もう一つの選択肢は、こういう物騒でチェック機能も備わっていない権力組織そのものを解体すべきである。こういう抜本的改革をしないかぎり、一人の検事の証拠隠滅という罪を罰したところで、同類の罪が犯され続けることは必然である。フロッピー改ざんの件は先に大阪高検で報告されたが問題にもされなかったと報道されていたが、それが事実だとしたら、この程度のことはしょっちゅう行われているという特捜部の組織の体質を意味しよう。大阪地検だけの問題ではない。この前田という検事はエースと呼ばれて、東京地検でも赤松建設事件でも「活躍」したのだ。恐ろしいことだ。検察には先に裏金を組織的につくっていたことが元大阪高検公安部長三井環氏にテレビで告発されそうになったとき、彼を逮捕し刑務所に送り込んだということもある。組織防衛のためならば、なんでもありという体質のように見えてならない。
 情けないことだが、検察官だけでなく、我々人間は例外なく罪に汚れているというのが現実である。「罪なき者からこの女に石を投げよ」とイエス様がおっしゃったことだけから言えば、つまり実存的なことからいえば、検察無用ということになる。しかし、神が上に立てた権威としてこれを肯定する観点からいえば(ローマ13章)、検察というものもその存在を否定するものではない。ただ、大きな権力をゆだねられた機関が罪ある人間によって営まれている以上、これが正しく機能し続けるためには、客観的チェック機能が必須なのである。検察官僚にはそれがない。ここが問題。
「義人はいない。一人もいない。」ローマ3:10

推薦図書>郷原信郎『検察が危ない』