苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

古代教会史ノート8  アテネとエルサレム


 エルサレムは啓示の立場を象徴し、アテネは理性の立場を象徴する。中世には「自然naturaと恩寵gratia」と表現され、近代には「理性と啓示」「理性と信仰」と表現されてきた課題がある。自然(理性)と恩寵(啓示・信仰)とはどのような関係にあるのだろうか。この際、この問題を整理しておこう。
1.伝統的な枠組み
a.理性と信仰は無関係だという立場。
エルサレムアテネに何の関係があろうか」「不合理なるがゆえに信じる」と言ったのはテルトゥリアヌス。そして、近世ではルター、近代ではキェルケゴールが類似の傾向。
b.理性に信仰が接木され、あるいは綜合されるという立場
 ユスティノスないしオリゲネスの立場。中世のトマス・アクィナスのことばで言えば「恩寵は自然を破壊せず、むしろ完成する」となる。

2.「理性と信仰」の聖書に基づいた再検討
a.対立の原理
従来、理性と信仰が対立していると思われてきた。しかし、そうだとすると、不信者は理性的であり、信者は非理性的ということになる。信仰とは非合理であるということになる。しかし、聖書的な信仰は非合理主義を意味していない。理性の限界をわきまえながら、これを適切に活用するのが聖書的な信仰である。実は、「理性と信仰が対立する」という枠組みがまちがっている。「理性VS信仰」という場合、理性は非再生者においても再生者においても共通であり、理性は自律的であるというドグマがあった。しかし、現実はそうではなく、<再生者の信仰>と<非再生者の信仰>が対立しており、<再生者の理性>と<非再生者の理性>が対立しているのである。
 R. デカルトは『方法序説』で理性が、すべての人に平等に配分され、再生者・非再生者の別なく共通する能力であるとする。「良識ボンサンスはこの世でもっとも公平に配分されているものである。・・・中略・・・正しく判断し、真偽を弁別する能力—これがまさしく良識、もしくは理性と呼ばれているところのものだが――は、生まれながらにすべての人に平等であることを立証している。」(小場瀬卓三訳)
 だが、この理性の自律という理念は、近世に始まったことではなく、古代教会以来のものである。理性の自律を認めるからこそ、神学的営みに非再生者である哲学者プラトンアリストテレスの教説が公然と利用されていた。ユスティノスの立場やトマスの立場はあからさまにそうであるが、理性を排するテルトゥリアヌスにおいても理性の自律という概念が背後に隠れている。だからこそ、理性ではなく啓示だとした。

 聖書的にこの問題を再検討してみるときにわかることを以下に簡潔にメモする。
 第一に、人間理性は堕落前から、自律的なものではなく、神のことばの支配下でこそ正常に機能するものとされていた。「善悪の知識の木」は、人間理性は制限されていたことを示している。(創世記3章)。アダムが善悪の知識の木の戒めを破ったことは、理性の自律を求めたことを示している。
 第二に、人間の堕落の影響(腐敗)は意志ばかりでなく、理性にまで及んでいる(ローマ 1:21-23、エペソ 4:18、 1テモテ 6:5 、2テモテ 3:8 テトス 1:15)。理性は、堕落後、正常に機能しなくなっている。すなわち、神を愛し隣人を愛する目的で機能しなくなっている。堕落した理性は、神の栄光をあらわすよりも自分の栄光をあらわすことを求め、隣人を愛するよりも利己的動機で隣人を利用しようとして機能するようになってしまっている。
 第三に、そもそも理性はそれ自体で中立的には機能しえない。理性は、ある信仰を前提とし、その信仰のめざすところに沿って機能する。「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)というのは、再生した理性は主を恐れることを根本原理とし目的として機能するということを言っていると理解される。逆に、「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。」(詩篇 14:1)とあるとおり、無神論者は、無神論的前提で知性を活動させる。その理性は、神抜きで人間中心的・自然主義的・無神論的に考え、神を中心に考えることは愚かしく、神ぬきで考えることが賢明だと思い込む。
 第四に、人がキリストの贖罪を受け入れ神との関係が正常化され再生すると、全人格が聖化の過程をたどり始める。再生した理性は神をあがめることを目的として機能する。しかし、再生者とはいえ、聖化の途上にあるので、不完全である。肉の思いと御霊の思いは再生者のうちで対立し葛藤が生じる(ガラテヤ5:17)。

b.関係の原理
 では、非再生者と再生者どのような点で関係しているか?デカルトのことばが説得力を持ち、プラトンアリストテレスの方法がある程度神学的営みに有効に用いられ得るように見えるのはなぜなのか。再生者と非再生者との間には対立と同時に関係があるからである。
 非再生者であっても、本来的に、神のかたちにおいて造られ、堕落後もそれは残っている(創世記9:6)。非再生者の心にも律法の命じる行ないがある(ローマ2:15)。カルヴァンのいう「神聖感覚」「宗教の種子」である。
 H.ドーイウェルトによれば、世界は15の多様な意味の法領域(様態的側面)から成っており、それぞれに領域主権があり相互に還元できない 。この意味ある世界の統一極は、この世界の創造主をおいてほかにはない。しかし、創造主を無視した人は、被造世界の一側面に全体を還元して全世界を統一的に把握することを望み、さまざまなイズムが生じるが、これは思想的偶像礼拝である。
 また、その単純な側面においては、非再生者と再生者との認識は表面上共通しているように見え、複雑で信仰にかかわりが深い側面においては、両者の違いが明瞭になる。たとえば、数的領域や物理的領域においては再生者・非再生者を問わず、表面上、理性は共通した認識を持ちうるように見えるが、神の前での価値観があきらかになる分野、たとえば歴史や道徳や信仰や生命の起源といった課題において両者のちがいは明瞭になる。