苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

古代教会史ノート2 時満ちて

「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、お遣わしになった。」ガラテヤ4:4(口語訳)

1.ローマ帝国による政治的統一
a.初代皇帝アウグストゥスAugustus
 イタリア半島チベル河畔のパラチヌスの丘に始まったローマは、やがてイタリア半島を統一し、さらに、カルタゴの制覇していた地中海世界と、かつてアレクサンドロス大王(356-323BC)の作ったヘレニズム世界マケドニア146・ギリシャ146・小アジア133・シリア64)を包括し、ローマ帝国は広大な地域を政治的に統一した。
<年譜>
 ローマ建国753BC
 共和制成立509BC
 イタリア半島統一272BC
 ポエニ戦争(対カルタゴ)264-146BC(カルタゴ滅亡)・・・・以後急速に版図拡大する
 第1回三頭政治BC53:ポンペイウスクラッススカエサル
 カエサル暗殺44BC
 第二回三頭政治43-36BC オクタヴィアヌスアントニウスレピドゥス
 ローマ帝政開始27BC
 オクタヴィアヌス 27BC−14AD
 ティベリウス 14-37
 カリグラ37-41
 クラウディウス41-54
 ネロ54-68
 四皇帝
 ヴェスパシアヌス
 ティトス
 ドミティアヌス
 ネルヴァ96−98
 トラヤヌス98-117
 ハドリアヌス117−138
 アントニヌス・ピウス138-161
 マルクス・アウレリウス・アントニヌス161-180
 コンモドゥス 180-192
 セプティミウス・セウェルス193-211
 カラカラ
 主イエスが人としてこの世に生まれた時、帝国を支配していたのは、初代皇帝アウグストゥス。彼は、「木でできたローマを黄金のローマにした」と賞賛される。ローマにはもともと元老院を指導集団とする共和制の伝統があった。その版図がイタリア半島の中にとどまっている間は、共和制はうまく機能していたが、ポエニ戦争後、版図が急速に拡大すると、共和制はもはや十分に機能しなくなる。
 カルタゴはもともとBC9Cにフェニキアティルス市がアフリカ北岸に建設した植民市であり、BC6Cから交易で繁栄した。BC4C本国衰退後は地中海全域を制覇していた。寡頭政治の海上国であった。ローマはカルタゴを亡ぼすことによって、地中海世界を手に入れた。ところが版図が急激に拡大したとき、困難が生じた。「規模の限界」が共和制にはあった。それは効率の悪さ、スピードの遅さである。たとえば辺境で叛乱が起きたとき、そこに派遣軍を出すかどうかを元老院600人が議論をしていたのでは、戦線は拡大し手遅れになる。共和制は維持機能に優れているが、スピードが遅く仕事機能が劣っている。
 それを見抜いたのはカエサルであった。彼は中央集権化することによって政治のスピードアップを図ったのであるが、それはローマの共和制の伝統に反するとした人々によって暗殺されてしまった。
 カエサルの甥にあたるのがオクタヴィアヌスである。彼はカエサルの志とねらいを熟知していた。ただ、伝統主義者たちを怒らせないで、カエサルの計画を達成した。彼は、たいへん巧妙に立ち振る舞い、その功績を元老院に称えられてアウグストゥスの称号を贈られ、さらに初代ローマ皇帝に就任する。塩野七生は彼を「ローマ史上最大の名優」と呼んでいる。「何しろ、この人物は元老院議員たちすべてを満足させつつ、元老院と共和制を否定する帝政を打ち立てるという離れ業を成し遂げたのですから」
 彼はローマ帝国を拡大路線から、安定路線に転換させた。そのためには「平和」の確立をしなければならない。いわゆるpax romanaパックス・ロマーナである。オクタヴィアヌスから五賢帝の終わりまでの200年間が、それ。アウグストゥスは平和の確立のために軍隊を整備した。道路網の整備はその一つ。また、アウグストゥスは安定した税制を確立した。ルカ福音書の主イエス降誕の記事に出てくる「住民登録」は、徴税台帳作成のためである。ルカ 2:1-3
 「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。」

b.「すべての道はローマに通ず」
 陸路が整備された。 ローマの公道の延べキロ数。3世紀末のディオクレティアヌス帝の時代の者で、総数372本。延べキロ数は85000キロメートル。現代アメリカとローマの帝国を比較してみよう。
ローマ帝国の最大版図面積は720万平方キロ:米国の面積は936万平方キロ。
ローマ帝国の公道は8万5千キロ:米国の公道は8万8千キロ
 つまり、現代米国の9分の7の面積なのに、道路はほぼ同じ長さである。これらの道路はほとんどが一義的には軍用に造られたのであり、この軍用道路こそ、ローマが広大な領土を数百年にわたって統一的に支配できた理由の一つである。反乱がどこかでおこれば、ただちにこの軍用道路を通って軍隊が派遣された。武田信玄が棒道を造り、ヒトラーアウトバーンを整備したのと同じ。ヒトラーローマ帝国に倣ったといわれる。
 陸路ばかりでなく、海路も整備された。ポンペイウスによる地中海の海賊退治によって海路も安全になった。「使徒の働き」にパウロのローマへの航海が記されているが、それを読めば当時の船旅において危険なことはすでに海賊ではなく、嵐であったことを見ることができる。
 陸路・海路の整備のおかげで古代のキリスト教徒たちは旅行することができた。パウロが行く前にすでにローマには福音が伝わり、キリストの教会が始まっていることがわかる(ローマ1章)。誰が「異邦人への使徒パウロが行く前に福音をローマに伝えていたのであろうか?キリストの福音は旅の商人や奴隷その他の一般信徒によってはるかに速やかに広く伝わったのである。ここには、世界宣教のかぎのひとつがある。新約時代の特徴の一つはすべての信徒にキリストの証人たるべく聖霊が注がれるということである。 
 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」使徒 1:8
 「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
『神は言われる。
終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたがたの息子や娘は預言し、
青年は幻を見、
老人は夢を見る。
 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、
わたしの霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。」使徒 2:16−18

2. ディアスポラユダヤ教とLXX聖書

 ペルシャメソポタミア、エジプトには多数のユダヤ人が在住し、エジプトではBC7C、5Cにはユダヤ教の神殿まで建設されている。イエスの時代までには、ローマ帝国内の主要都市にはユダヤ人共同体が出来ていた。
 ディアスポラユダヤ教は、キリスト教ローマ帝国に広がっていくための主要な通路の一つとなった(使徒13:5,14,17:17)。パウロの伝道方法を使徒の働きに見ると、彼はまずその町のユダヤ教の集会に出かけて伝道している。そこにはユダヤ人と回心した異邦人であるがまだ割礼は受けていない「敬虔な人々」がいた。彼らに旧約聖書から、預言されていたメシヤがナザレのイエスとして到来したと論じたのである。
 この時用いられていた旧約聖書七十人訳聖書(LXX、Septuagint)である。このユダヤ教は、ヘレニズム世界共通語となっていたコイネーに翻訳されたLXX聖書を提供する。とはいえ、コイネーが通じたのは東方のヘレニズム世界であって、西方はラテン語圏だった。たとえば、ヒッポのアウグスティヌスギリシャ語が苦手で、ラテン訳の聖書を用いていた。ラテン語圏でギリシャ語が使えるのは教養の高い人々だけだった。
 七十人訳聖書と呼ばれるのは72人のユダヤ人学者がヘブライ語聖書をそれぞれ別々に訳を完成させて持ち寄ると、それが逐語的に一致していたという伝説による。つまり、神の霊感による翻訳だといいたいわけ。律法の翻訳が紀元前3世紀中ごろで、そのあと百年ほどかけて訳されたという。ではなぜ72人訳といわないかは知らない。
 七十人訳には旧新約聖書を一貫した神学を形成する上で意義があった。新約聖書のほとんどの著者は七十人訳を聖書として引用し、古代キリスト教徒たちが教会で用いる用語の多くは七十人訳に由来している。七十人訳旧約聖書の用語と新約聖書の用語の橋渡しをしている。たとえば、ヘブル語のメシヤを七十人訳ギリシャクリストスと訳し、その訳語を新約聖書記者たちが採用した。また、パウロがローマ書やガラテヤ書でディカイオオー(義とする)という用語をどのような意味で用いているかということを確認するには、七十人訳聖書でディカイオオーがどのような文脈でどのような意味で用いられているかを調べればよい。申命25:1,箴言17:5,イザヤ5:23では、この語が「義と判決をくだす」「義と認める」という意味で用いられていて、ヘブル語のツァデク・ツァドクに該当することが確認できる。申命記には「人と人との間で争いがあり、彼らが裁判に出頭し、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判決が下されるとき」(申命記25:1)とある。つまり、ディカイオオーは、法的な宣告を意味するのであるから、カトリックのように義化と訳すのは不適切で、宣義とか義認と訳すのが適切だとわかる。http://www.spindleworks.com/septuagint/septuagint.htmをみよ。

3. ユダヤ主義

 次に、初代キリスト教会が直面した宗教的問題について、まとめてみよう。
(1)内憂としてのユダヤ主義の異端
 一つはユダヤ主義の問題である。ガラテヤ書、使徒15章のエルサレム会議に取り上げられている。ユダヤ主義的キリスト教というのは、異邦人キリスト者ももろもろの儀式律法を行なわなければならないというものであった。ガラテヤ教会の人々は、ユダヤ教的律法主義に惑わされてしまった。詳細は他のクラスで。

(2)外患としての迫害
 キリスト教は当初、ローマ帝国からはユダヤ教の一派であるとみなされていたので、ローマ帝国からは迫害を受けることがなかった。当時、ユダヤ教はローマにおける公認宗教の一つとされていて、ユダヤ教徒にはエルサレム神殿への献金の自由、集会の自由、兵役免除など特権が与えられ保護されていた。70年にユダヤ戦争でエルサレムが破壊されるまで、こうした状況は続いた。 
 この初代教会時代にキリスト教会を迫害したのは、ローマ帝国政府ではなくユダヤ当局である。使徒の働きには、ユダヤ当局から執拗な迫害を受ける使徒たちの姿が記されている。新約の教会で最初の殉教者ステパノは、ユダヤ教徒によって迫害されたのであって、ローマの手にかかったのではない。パウロも迫害されて殺されかかった。
 「ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した.」 使徒 14:19
 むしろ、ローマの方は宣教師パウロを守った。パウロローマ市民権を活用して、伝道を展開していった。


4.異教(混合宗教 シンクレティズム

 もう一つはヘレニズム世界におけるシンクレティズムである。これは当時の流行であった。ローマのパンテオン神殿つまりすべての神々の神殿には、諸国の多くの神々が加えられていた。ローマ当局は帝国支配下にある各民族の神々が、異なった名前をしていても究極は同じ神々であると信じさせようとした。本地垂迹説である。
 たとえばコリントのアクロポリスに祭られていたのはギリシャの恋愛の女神アフロディテであったが、その礼拝の形態は、シリヤの女神アシュタロテつまり旧約聖書のアシュタロテ礼拝のヘレニズム化したかたちであった。その上、コリントのアフロディテには連れ合いがいて、それは海の神メリケルテスである。メリケリテスとは、ツロの町の主神バアルつまりメルカルトの名をギリシャ風に発音したにすぎない。バアル礼拝はBC9Cにイゼベルがイスラエルに持ち込んだものである 。(FFブルース『初代キリスト教の歴史』)
 エジプトのイシスやオシリスの神話、インド・イランからはミトラ神礼拝、また、セム系の大地母神礼拝も流行していた。また、ギリシャからは古代からアテネ周辺で行なわれていた密儀宗教がはやっていた。これらの宗教は混交されていて区別が出来ない。古代日本で、仏教が取り入れられたとき、本地垂迹説が行なわれたのとも重なる。仏教が興隆した時代に現われた神仏習合思想の一つであって、日本の八百万の神々は、実はさまざまな仏が化身として日本の地に現われた権現であるとする考えである。権とは「仮に」という意味。たとえば天照大御神大日如来の権現であり、八幡神熊野権現阿弥陀如来の権現であり、大国主は大黒天の権現だとされる。現代でも日本では真光や真如苑といった新宗教の教え、幸福の科学など新新宗教、『ダビンチ・コード』にも影を落としているニューエイジの教えは、シンクレティズムである。こういう世界では、ユダヤ教徒キリスト教徒は唯一の神にこだわる頑固で、時に社会にとって変わり者であり、有害な連中と思われていた。
 新約聖書の書簡執筆の背景にも、こうした異教が見られる。たとえば、ヨハネの手紙第一4章の背景には、キリストの受肉を否定するグノーシス主義が瞥見される。また、コロサイ2:20−23に見える、人間の好き勝手な礼拝、謙遜、肉体の苦行をともなう「この世の幼稚な教え」というのもギリシャ・オリエント的背景をもつ異教主義を意味している。
<資料>
「シリア女神の祭り     アプレイウス『変身の物語』8:27(原典新約時代史所収)
  彼らは自分たちの腕を肩のところまで剥き出しにして、手には大きな剣や己を振り上げ、笛のかなでる調べに駆り立てられて、狂ったようにわめきながら踊っていくのでした。こうして、私たちはかなり多くの家々を過ぎて来ましたが、たまたまとある裕福な資産家の屋敷にやってきました。そして、その屋敷に一歩足を踏み入れるやいなや、すぐさま彼らは調子はずれな叫び声を挙げて、狂ったように飛び回り始めましたが、やがて頭をうなだれ、目もくらむような速さで首をねじ回し、その動きで垂れ下がった髪の毛を輪のようにして振り回しながら、幾度もおのがからだにまで噛み付くのでした。ついには、身に帯びていた諸刃の鉄具で思い思いに腕を切りつけ始めました。その間に、かれらのうちで最も激しく狂いまわっていたひとりが、心の奥底から息も絶え絶えに何度もあえぎながら、あたかも神霊で魂がいっぱいに満たされたかのごとくに、陶酔して錯乱状態に陥りました。その様子はいかにも、神々の臨在することで、人間は元来の状態よりも良くされるのではなくて、むしろ虚弱なあるいはやめるものにされるのが常であるかのようでした。(中略)
 彼らが剣で切ったり、鞭で打ったりしたため、これらの女じみた男たちの流す血で地面が汚くぬれたありさまをみなさんも想像することができるでしょう。・・・・するとこれを見ていた人たちは先を競って、銅貨を、いやそればかりか銀貨をさえもおふせとして提供したのです。彼らはそれを大きく開いた懐の中に受け取りました。(後略)」

5.皇帝礼拝 Imperial Cult, Emperor worship

 古代教会が直面しなければならなかったもう一つの異教は、皇帝礼拝である。ヘレニズム諸国で行なわれていた君主礼拝の影響がローマ帝国に取り入れられ、利用されたものであるから、これも一種のシンクレティズムといえよう。 「支配者(王)は神なりという東方思想と、ギリシャの人間神化の思想とが、アレクサンドロス礼拝において結合し、これらローマに至って皇帝礼拝の形をとった。」(大事典)初代皇帝アウグストゥスは生前すでに東方属州では神的礼拝の対象とされたが、共和制の伝統あるローマの西方では受け入れられない。しかし、その死後、元老院がその神格化を宣言し、西方にもアウグストゥス礼拝が広がる。以後、皇帝はみな神格化される。
 しかし、この問題は、教会と国家にかかわることであり、コンスタンティヌス帝の回心にいたるまで延々と続くテーマなので、これから徐々に詳しく学ぶであろう。ここでは、ただ新約聖書に若干見える皇帝礼拝にかかわる本文を紹介しておこう。
 「さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々は人の子をだれだと言っていますか。』彼らは言った。『バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。』 イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは、生ける神の御子キリストです。』」マタイ 16:13-16
 「ギリシャ時代のパネアス、現在のシリアのパニアスである。古くからギリシャの森や牧童の神パンの祭壇があった。紀元前20年、ヘロデ大王は皇帝アウグストからこの地を拝領し、町を興し、パン神の祭壇の近くに皇帝の像を安置した大理石の神殿を建てて敬意を表した。彼の息子ピリポはこの町を拡張補修し、カイザルに敬意を表して、パネアスをカイザリヤと改めた。これに自分の名を加えてピリポ・カイザリヤとし、父ヘロデ大王がサマリヤに建てたカイザリヤと区別した。この自然崇拝、人間崇拝の場で、イエスはペテロの信仰告白を引き出し、異教の神々と皇帝礼拝に死を宣告する。(後略)」(新聖書注解マタイ増田誉雄)