苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

使徒15:38「仕事のために」

 新改訳の使徒15:38についてメモをする。青年マルコはバルナバパウロとともに出かけた第一回伝道旅行の途中で伝道の任務をほっぽり出してエルサレムに帰った。第二回伝道旅行に出かけるにあたって、バルナバはそんなマルコをもう一度同行させようとする。しかし、パウロは第二回伝道旅行には連れて行くべきではないと主張する。

新改訳 「しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。」(使徒15:38)
口語訳 「しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。」
塚本訳 「パウロは、(前の旅行の時)パンフリヤから自分たちを離れて、一緒に仕事に行かなかったような者を、連れてゆくべきでないと頑張った。」
前田訳 「しかしパウロは、パンフリアから自分たちを離れて、いっしょに仕事に行かなかったものを連れてゆかないことを主張した。」
新共同訳「しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。」

 おそらく新改訳の翻訳者は、口語訳の文では、「働きを共にする」となっているのを正そうと考えて、「同行し」としたのだろう。しかし、そうすると日本語の語感では、「仕事のために(eis to ergon)」が浮き上がってしまい、マルコは伝道以外に何か別の仕事の都合で、パウロバルナバから離れてエルサレムに帰って行ったという意味に誤解されかねない。ここでいう「仕事」とは新共同訳が言うように「宣教」を意味している。
 塚本訳、前田訳のように、「一緒に仕事に行かなかった」と訳せば、口語訳の問題も新改訳の問題もともに解決することができる。新改訳の訳文は誤訳とは断じられないかもしれないが、誤読を生む可能性の高い訳であると言わざるを得ない。できるだけ、新改訳をそのまま活かすとすれば、「仕事に同行しなかったような者は」と直せばよいだろう。


  小海の土村公園の丘から雲に浮かぶ浅間連峰を望む。