苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「ば」でなく「は」


 礼拝の最後の部分に、通常、祝祷がある。牧師が祭司として、会衆に三位一体の神の祝福があるようにと天を仰いで祝福をさずける。伝統的な言い回しは、
「あおぎこいねがわくは、
 われらの主イエス・キリストの恵み、
 父なる神の愛、
 聖霊のしたしき御交わりの、
 汝らの上に豊にあらんことを」
 である。ときどき耳にして気になることは、「あおぎこいねがわくば」という牧師がいることである。「ば」は間違いで、「は」が正しい。「ば」は接続助詞である。接続助詞ならば、「あおぎこいねがう」の未然形につけて仮定条件で「あおぎこいねがわば」(おねがいするとすれば)となる。「あおぎこいねがわく」の「く」は、動詞のあとにつけてそれを体言化する接尾辞である。奈良時代に多用された「ク語法」というそうで、ほかにも「恐らく」「惜しむらく」という言い回しが残っている。だから、「あおぎこいねがわくは」とは「あおぎこいねがうことは」という意味になる。
 実は、学生時代にかよっていた教会の牧師、朝岡茂先生が「あおぎこいねがわくば・・・」と言っておられた。国文の学生だった私は、気になって、あるとき、勇気を出して先生に上述のことを申し上げたら、朝岡先生は、「そうですか。わかりました。ありがとう。」とおっしゃって、次の礼拝のときから「あおぎこいねがわくは」と祝福してくださるようになった。朝岡先生という方は豪傑だったので、人を恐れぬ言動ゆえに傲慢な人物だと思われるむきもあったように思うが、真理の前にはじつに謙遜な方でいらした。
 もっとも最近は、「父と子と聖霊の神の祝福があなたがたの上にありますように。」と口語体を用いる牧師が増えているようである。そのほうが今の時代にふさわしいのかもしれない。だがもし文語体を用いるならば、正確に用いたいものだ。