苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

教理体系見直し2 人間論―堕落前

2.人間論ーーー堕落前

(1)被造物のうち、とりわけ、人は「神のかたち(御子)」にしたがって創造された
「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちにおいて(ベ・ツェレムヌ)、われわれの像において(キ・デムーテヌ)。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』 神は人をご自身のかたちにおいて(ベ・ツェレムヌ)創造された。神のかたちにおいて(ベ・ツェレム・エロヒーム)彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:26,27私訳)
 「かたち」を意味する用語ツェレムとデムートを区別するローマ教会の議論があるが、ほとんど意味があると思われない。むしろ同義語を繰り返すヘブル語の特徴的表現に過ぎないと見るべきだろう。「べ」と「キ」は「に」「において」「として」「とともに」と言った意味。
 コロサイ書に「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」(コロサイ1:15)とあるが、1:15の「神のかたちεἰκὼν τοῦ θεοῦ エイコーン・トゥ・セウ)」というとき、意識していたのは当然、この創世記1:27であったと考えられる。
 当時読まれていた七十人訳旧約聖書は、創世記1:27の「ベ・ツェレム・エロヒーム」をκατ' εικονα θεου(カテイコナ・セウ)つまり「神のかたちにしたがって」と訳している。コロサイやコリントにおける「神のかたち」は、七十人訳創世記1:27から取っていると判断してよい。つまり、コロサイ書は、創世記1:26,27の人間の創造における範型である「神のかたち」は御子キリストであると理解していたということである。人は、もともと神の御子に似た者として創造された。人の範型は、第二位格つまり神の御子である。
またローマ書8:29には「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」とある。これはキリスト者の予定に関するみことばであるが、その予定とは「御子のかたち(エイコーン)と同じ姿」への予定である。本来、人は「神のかたち」である御子と同じ姿となるように選ばれ、「御子のかたち」に似た者として創造されたが、罪を犯してそこから堕ちてしまったので、この終りの時、御子が人として来られ、人をご自分に似た者として新たに創造するために来られたのである。
 エイレナイオスは、次のように言っている。「『・・・・(神は)人を神の似像として造ったからである』そして、似像とは神の子であり、人間は(その神の子の)似像に造られたのであった。そういうわけで、『終りの時に』(その神の子は)似像(である人間)が彼自身に似ていることを見せるために『現れた』(1ペト1:20)のであった。」(『使徒たちの使信の説明』22)
 とはいえ、本質において御父と同一同等の御子は無限である点で、有限である人とは質的に異なっている。


(3)創造において、人は主なる神と親しい交わりのうちにあった
 創世記2章、3章には主と最初の人との交わりの様子が描かれている。主は、土を材料として人間のからだを造り、これにいのちの息を吹き込まれ、これを生きるものとされた(2章7節)。
 さらに、主は、人をとってエデンの園に置き、園における労働の命令と、食べ物に関する許しと制限と、結婚に関する定めをことばをもってお与えになった。また格別、「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる主の声(あるいは音)を聞いた。」(創世記3:8)という表現は、日ごろ、主が人の姿をしてエデンの園を歩いてアダム夫婦と交流を持っていたことを示している。これは一見するとあたかもギリシャ神話に見られるようなアンスロポモロフィズム(擬人法)のようであるが、そうではない。聖書の創造論からいえば、逆に、人が本来「神のかたち」である御子に似せて造られたセオポモロフィズム(擬神法)的存在なのである。創世記には第18章にも人の姿をとってこられた主が見られる。人は、擬神法的存在であるから、神と交流することができる。


(4)創造において、人は神の主権の下にあって平安であった
 「善悪の知識の木から取って食べてはならない」という命令は、人間に対する神の主権を象徴するしるしであった。人は神から園のすべてを与えられていたが、この唯一の例外によって、神の主権を認識させられた。その生における善悪を自ら決める権限を与えられてはいない。創造主である神が、人の生における善悪をお定めになるのである。神のお定めになった善悪の基準の下で、被造物である人間は生きる。善悪の知識の木から取って食べることは、神の人に対する主権を拒絶し、人間が自律を志向することを意味していた。
 アウグスティヌスは言う。「その掟によって、この被造物にご自身が主であることを思い出させ、かれらにご自身への自由な奉仕を委ねられた神であった。」(神の国14:15)


(5)神の主権の下にあって、人は隣人関係において恥ずるところがなかった
「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」(創世記2:24,25)
 神の主権の下に自分を置くとき、人のうちにおける秩序も意志がもろもろの肉の欲求を統御して正常を保っていたゆえに、人とその妻は互いに恥じる必要がなかった。


(6)神の主権の下にあって、人は被造世界を正しく支配し、世話することができた
「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」(創世記1:28)
「神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」(創世記2:15)
「神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。」(創世記2:19)


 オキナグサ 5月16日の花を参照。http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20100516