苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神のかたちにしたがって


  ナツユキソウ



創世記1:27
口語訳> 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

新共同訳> 神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

文語訳> 神其像の如くに人を創造りたまへり即ち神の像の如くに之を創造り之を男と女とに創造りたまへり

新改訳> 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 筆者が気になるのは、新改訳第三版は「ご自身のかたちとして」「神のかたちとして」と訳しているところである。この翻訳のばあい、「人は神のかたちである」という理解がされることになる。口語訳・新共同訳も同じことになるだろう。ただ、文語訳のみは「其像の如くに」「神の像の如くに」であるから、「神の像」なるものを範型として人が創造されたと理解される。
 ところで、コロサイ書は先在のキリストのことを、「神のかたち(エイコーン・トウ・セウ)」であると言っている。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」(コロサイ1:15)
 コロサイ書の記者が「神のかたち」というとき、著者自身、また当時の読者はなにを意識したであろうか。当時用いられていたギリシャ語訳旧約聖書である七十人訳(セプチュアギンタ)創世記1:27の「神のかたち」は「エイコーン・セウ」であり、「カタ・エイコナ・セウ」つまり「神のかたちにしたがって」となっている。したがって、コロサイ書記者が、キリストを「神のかたち」と呼んだとき、創世記1:27の「神のかたち」を意識していたと考えるのはごく自然であるし、当時の読者も同様であろう。文脈的にも、創世記1章26,27節もコロサイ書1章15節も創造について述べているところであるから。
 以上のようなわけで、創世記1:27について、コロサイ書は、神は人を神のかたちである第二位格(先在のキリスト)にしたがって創造されたと理解していると解される。「神のかたち」は第二位格の別称であり、人は「神のかたち」に似せて創造された被造物なのである。
 であるとすれば、新改訳聖書、新共同訳、口語訳のように、「人は神のかたちである」と解されるような翻訳はいかがなものだろうか。特に、旧新約聖書の啓示の一貫性を信じることを標榜する新改訳聖書においては、そうである。むしろ、「神は人をご自身のかたちにしたがって創造された。神のかたちにしたがって彼を創造し、男と女に彼らを創造された。」と訳すべきであろう。「神のかたちにおいて彼を創造し・・・」でもよかろう。「として」あるいは「に」と訳されているのは、ヘブル語本文では「べ」という前置詞である。
 このように訳した場合、神論と創造論と人間論とキリスト論と救済論にかんする見通しが、次のように、たいへんよくなる。本来、「神のかたち」である先在のキリストに似た者として、人は創造された。先在のキリストは、エデンの園でアダムたち夫婦としたしく交わっておられた。ところが、人は主に反逆し、「神のかたち」からひどく隔たる者となってしまった。やがて、「神のかたち」である先在のキリストは、人を本来の姿つまり「神のかたち」に似た被造物に回復させるために受肉し、贖罪のわざを敢行し、新しい創造のわざをなさったのである。聖化とは要するにキリストに似た者とされることであるが、それは失われた「神のかたち」との類似性の回復である。
 従来の、人が本来、無限な「神のかたち(御子)」の有限な似姿として創造された存在であることを十分に勘案しない、キリストの受肉論は、あまりにも唐突すぎる観がある。つまり神と人との区別性のみ主張して、類似性を無視した見かたでは、御子が人となられたことはまったく唐突でばかげた出来事となってしまう。その「ばかげた」ところに神の破格の愛を見るという人々もあるだろうけれど・・・。
 
ちなみに、新約聖書のなかで、ほかにキリストが神のかたちであるとするのは、Ⅱコリント4:4(エイコーン・トウ・セウ)の一箇所のみである。類似の表現では、「神の御姿モルフェ」(ピリピ2:6)、「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」(へブル1:3)。ただし、ピリピ2:6は口語訳では「神のかたち」、前田訳では「神の形」、塚本訳では「神の姿」、新共同訳では「神の身分」とそれぞれ訳されている。