苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

エルサレムからアンテオケへ、アンテオケからエルサレムへ

                      使徒11:22−30
                      2010年5月16日 小海ペンテコステ主日礼拝


序 ペンテコステおめでとうございます。この日、教会に聖霊が注がれて世界宣教が始まった記念日なので、教団ではこの日を国外宣教デーとしています。そのことをおぼえつつ、みことばを味わいましょう。

1.エルサレム教会からアンテオケ教会へ

 バルナバがここに再び登場します。最初の登場はアナニヤ、サッピラ事件に先立って、多くの貧しい人々に施しをするために地所を売った人ということでした。第二の登場は、迫害者サウロがダマスコ門外で回心して、エルサレムにやってきたときのことです。ほとんどの人々がサウロのことを恐れ、疑って近づこうともしないのに、バルナバひとりはサウロからよくよく事情を聴いて、その回心がほんとうであることを確かめてエルサレム教会の弟子たちに紹介したということでした。
 バルナバは本名をヨセフといい、キプロス生まれのレビ人でしたから、ギリシャ語も自由に用いることができたようです。また、彼はなかなか立派な風采であったようで、パウロといっしょにルステラを訪ねたときには、やせっぽちのパウロはヘルメス、体格風采の立派なバルナバはゼウスだと間違えられています。
 そして、今度は異邦人伝道の本格的スタートにあたって、バルナバのはたらきが記録されています。彼は二つのことをしました。

(1)エルサレム教会との一致を
「この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。」(22節)とあります。エルサレム教会では慰めの子バルナバは、たいへん信望が厚かったことがわかります。異邦人が回心したというニュースを受けて、彼が出かけてエルサレム教会がその出来事を理解し、神を賛美して喜んでいるということをエルサレム教会の代表として伝えにいったわけです。彼はキプロス生まれでしたから、ギリシャ語も自由に使うことができたのでコミュニケーションの問題もありませんでした。
「彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。」(23,24節)
 バルナバはそのニックネームの通り、慰めと励ましに満ちた器でした。クレネ人、キプロス人から福音を聞いて回心したアンテオケ教会の兄弟姉妹たちは、たぶん不安があったろうと思われます。自分たちは、当時、総本山というような立場にあったエルサレム教会からまともな教会として認めてもらえるかどうかということについて、不安があったのです。アンテオケの回心者たちは有名な使徒の誰かに導かれて救いにあずかったというのではなく、異邦人改宗者でイエス様を信じるようになった名もない信徒に福音を聞かされてイエス様を信じたからです。
しかし、バルナバは「誰から聴いたにしても、真理の福音を信じて己の罪を認め、イエス・キリストのみをわが救い主として信じたみなさんは、まちがいなく救われたのです」と励ましたのです。バルナバは信仰と聖霊に満ちていましたから、彼の人格に接し、そのみことばを聞くとだれもが喜びと確信に満ちました。そして、さらに友人や家族たちをつれてきたので、多くの人々が回心していったのでした。
このようにバルナバのした仕事の一つ目は、アンテオケ教会とエルサレム教会との一致を確かなものとしたことです。

(2)宣教協力
 アンテオケ教会における異邦人回心という出来事は、決して小さなことではないとバルナバは的確な判断をしました。神様は、このアンテオケから何か大きなことを始めようとしていらっしゃるということをバルナバは見て取ったのです。アンテオケには、キリストの救いに対する渇きがあるばかりでなく、回心した人々が福音を他の人たちに伝えたくてうずうずしているという状況でした。また、アンテオケという場所はここから地中海世界へと開けている港町でもありました。
 そこで、バルナバはこれは自分ひとりで行なうことではなく、強力な同労者が必要であると考えました。そのとき彼の念頭に示されたのはサウロです。バルナバは、先にサウロから事情を聞いたときに、サウロは、自らあかししていたように、主イエスから特別に異邦人への使徒として召された男であることを知らされていました。異邦人を救いに導くために、主イエスがお召しになった伝道者サウロこそ、このアンテオケでの働きにふさわしいと判断したのでした。
 ここがバルナバのもう一つのすばらしいところです。自分ひとりでがんばってやってしまうというのではなく、自分の責任は十分に果たしつつ、ことがらを主から賜物を受けた同労者とのチームワークで行なっていこうとすることです。宣教協力ということです。彼らは丸一年間、アンテオケで働き、多くの回心者を得たのです。
しかも、ここで主を信じた者たちははじめて「キリスト者」と呼ばれるようになったとあります。キリスト者とは、「キリストのもの」という意味です。話をしていると、いつもキリストの話をする、四六時中「キリスト様に感謝」とか「キリストに栄光を」とかばかり言っている。だから、世間の人たちは、やつらはキリスト者だとあだ名をつけたのでした。「バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(25,26節)

2.アンテオケ教会からエルサレム教会へ

 アンテオケで多くのキリスト者が誕生し、バルナバとサウロの働きが始まって1年たとうとしていたころ、預言者たちがエルサレム教会からやってきました。預言者というのは、初代教会に独特の働きをしていた人たちでした。新約聖書の完結していない時代に教会の必要に答えるために神様が特別に与えた賜物をもった人たちでした。
 預言者のなかにアガボがいました。彼はいつも不吉な預言をする人です。彼は飢饉が起こると預言し、それが成就しました。この飢饉は皇帝クラウデオ(在位41-54年)のことでした。(27,28節)
 飢饉の影響は広範であったでしょうが、内陸部の都市エルサレムのばあいは厳しいものであったろうと容易に想像されました。アンテオケのような港町で周囲と交易がある場所の場合は、物資が入ってきました。けれども、エルサレムはそうは行きません。しかも、エルサレム教会の使徒たちはセンターチャーチを守るために、非合法化された地下教会を維持するために、そこに留まっていたのですから、生活がむずかしかったでしょう。
 そこで、アンテオケ教会の兄弟姉妹はつぎのように考えました。
「私たちはエルサレム教会から発した霊的な祝福を受けて、神のゆるし、永遠のいのちの祝福をいただくことができたのだから、今度、自分たちは物質的なものをもってエルサレム教会をサポートするのは当然のことではないか。」
 困難のなかで信仰の闘いをして、神の教会を守っているエルサレムの兄弟姉妹のために義援金を送るという働きは、このアンテオケ教会に始まって、古代の諸教会において実践されたことでした。マケドニヤ、アカヤの教会でも同じことが行なわれたことがローマ書に記されています。
「 それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。 彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。」ローマ15:26,27
 こんなわけで、彼らは喜んで、それぞれの力に応じて救援物資やお金を送ることにしたのでした。「そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。」(29.30節)
 彼らは救援物資、義援金をあつめて、バルナバとサウロの手によってエルサレム教会の長老たちに送ったのです。

 まずエルサレムからアンテオケに生まれたばかりの教会にバルナバというすばらしい人が送られました。エルサレム教会とアンテオケ教会は一致しました。
さらに、バルナバはこの働きは自分ひとりでなく、サウロの賜物とチームワークでなすべきだと考えて、サウロをともなっていきました。その結果、アンテオケ教会は確信と喜びに満ちてさらに多くの人々が救いにあずかったのでした。このように、エルサレムから霊的祝福がアンテオケにもたらされたのです。
 いっぽう、アンテオケの教会は霊的祝福、キリストの福音をエルサレム教会から受けたことを感謝しましたので、飢饉になったときには今度は、私たちがエルサレム教会を助けるときだとばかりに喜んで救援物資、義援金を送ったのでした。
 地上では互いに顔を見交わすこともまだないお互いでしたけれども、エルサレム教会とアンテオケ教会とは主にあって一つの公同の教会だったのです。ひとつのキリストに連なる神の家族であるという自覚と愛を持っていたのです。

<結び>
 私たち小海キリスト教会もまた、このような公同の教会のまじわりのうちにあって生まれて来たのだということを、今回振り返って思わされたことです。17年前に馬流元町の借家で開拓伝道がはじまった最初の三年間、同盟教団内外からのたくさんの兄弟姉妹からの献金は大きな助けとなっていました。その後、日本だけではなく、KDKというアメリカの教会の兄弟姉妹の開拓教会に対する支援基金からも支援を三年間にわたっていただくことができました。ありがたいことは、経済的サポートだけではありません。献げてくださった兄弟姉妹はこの小海、南佐久郡の人々の救いのために祈ってくださったことがありがたいことです。
 私たちは祈られ支えられて来ましたが、「受けるより与える者がさいわいである」とあるように、これから私たちは支えられるばかりでなく、与える教会、支える教会として成長して行きたいと願います。公同の教会は信州宣教区に、また国内に、そして世界にひろがっています。同盟教団はこれまで20人の国に宣教師を送ってきました。現在は、台湾(寺田宣教師、斎藤宣教師、海老名宣教師)、タイ(松下宣教師、田口宣教師、山口宣教師)、北カナダ(鈴木宣教師)、パプア・ニューギニア(中村宣教師)にそしてモンゴル(矢田宣教師)、そして中国へと派遣してきました。それらの地に生まれた教会もまた公同の教会のひとえだひとえだです。今日はペンテコステで、世界宣教がスタートした記念日です。宣教師たちの働きをおぼえて祈り、またささえまいりたいと思います。